紙芝居

 紙芝居





  図書館の企画、紙芝居のワークショップに参加した。

  週一で三回の出席が、必須となる。

  面白い催しだと思った、なかでも男の参加者が少ない行事。





 
  紙芝居そのものが、すでに印刷されているのを見た。

  そこに商業化されている文化だと感じた。

  いまの少年少女は、いとなまれている紙芝居に接したことはないと思う。

  とても儲かるような代物ではない、過去を思い出すものでしかない。










  https://www.youtube.com/watch?v=3osX9d4BtZA











  この”紙芝居”、詰めてみると、あと数年の命かもしれない。

  本物の紙芝居を知らない世代が、大部分になってしまうと、

  単なる”絵本”と変わらなくなってしまう。

  子供が幼い時、絵本を読み聞かせたことを思い出した。






 
  読んで聞かせるために、声を出す。

  少し聞く人が増えると、声を張り上げる。

  そこに興味が出てくる、声を出すことは刺激になり

  表現力を身に着ける可能性があらわれてくる。

  押し黙っている、老年になってはダメ。





  ディサービスの本番で紙芝居をやったことはありません。

  先輩のやっていることを見習わなくちゃいけないと、感じ始めている。

  だべるという感覚が、大切かもしれない。

  その領域に至るまで、長い道のりだろうと思う。






  ボランティアそのものは、そんなに深く考えるモノではないと思う。

  最悪の場合、言い合いになるかもしれないが、

  ”刺激し合う ”関係が、一番いいと思う。

  「下手だ」「うまい」の判断材料にするのでなく、

  介護をうけている人自身が、「紙芝居」やってみようかと思える、

  そんなコミュニケーションがあってもいいもの。







  ディサービスを受ける側、ディアサービスを施す側と決めてしまうことが、

  不幸なものにつながるのではないか。

  痴呆症といえば、簡単なこと。

  痴呆症になりそうな年代の人が、痴呆症だと疑われている人の世話をすれば、

  その病から遠退く可能性がある、そう思えないだろうか。







  私の眼から見てみると、介護をサポートする人、介護でサポートされる人

  紙芝居のようなボランティアをする人、全て女性たちで埋め尽くされている。

  何もかもお膳立てされている、その環境が痴呆症へ誘っているようにみえる。

  





  特養に入れることは、まるで宝くじに当たったようなもの。

  特養に入らなく、健康で一生を終えることができれば、

  これ以上の幸せなことはないだろう。

  この紙芝居、もう少し長く興味を持ち続けていたいものだ。