感情を発露するのが、いちばんの幸せ

 感情を発露するのが、いちばんの幸せ




  一枚のチラシが、つどいと文集の呼びかけをしている。

  報告とパネルディスカッション。

  ミニライブと交流会のお知らせ。




  ほとんど字ずらをつづったチラシ。

  このチラシを手にとって、読んでもらえるかどうか。

  それが人と人のコミュニケートを、つなぐ。





  文集は、どういったところで人を引き付けるのか。

  この時代は、本を読むことを良しとしていない。

  読む側の、沈黙としずかな思考がつづいて、読む意欲が育つ。





  電車の中を見てみれば、人の眼を塞いでいるのはケイタイとわかる。

  人の意見でなく、人の顔でもない。

  人の考えでもなければ、自分の意見を語るでもない。

  ただの与太話を見るために、ケイタイを開く。





  
  映画に題があり、書籍に表題がある。

  投稿された文に、テーマが掲げられている。

  関心のあるテーマは読まれ、興味のないものに

  誰も目を通そうとしない。

  文章をよく読むひとが、読む前からその文を

  取捨選択されているのがわかる。






  インタビューに応じてもらえる、時間を頂いた。

  問いがあれば答えがあり、その問いに疑問があれば、

  答えが滞ってしまう。

  答える側と質問する側が、話しをしたいという共通点でもって、

  つながりが生れてくる。






  生い立ちを聞くことができた。

  住むところを変えた、という事情が分かった。

  人と人をつなげるモノ、コミュニケーションすること。

  モノ書きを媒体にした、人生を過ごされてきた。

  人を知るに書かれたモノが、主な位置を占めてきたのだろう。






  インタビューをした。

  伺った内容を新たな情報として、流すことに意味があるだろうか。

  そこに個人情報があり、事前の承諾が必須となる。

  で詳細を書きつづったとして、読者は興味をもつだろうか。

  そう簡単に筋書通りにはいかないと思う。





  
  インタビューをして興味もち、その答えをいただき、

  感動したのですが、それを文で表現するには、

  それなりの限界を感じます。

  自分の表現力も課題となります。

  一時間やそこらで、興味のなくなった他人の人生に移し替えることが

  できるかどうか。

  どんな方でも、人生そのものは深いだろうと思います。






  文章で表現するとは、最終的な行為ではあるでしょうが、

  ひとさまが本当に知りたいこととして、本を開けてくれるかどうか、

  私は疑問視しています。

  それよりも他人・知人に、過去の人生を語る機会をつくる。

  そこに重要な意味があるのだろうと、思い始めています。






  手紙を書きつづるより、ケイタイを使って感情を伝える。

  「つながる」という、時代のなかを同乗する関係を持ちたいとする「人情」。

  感情そのものが、人々の活動を揺り動かしている。

  電話の鳴り響く部屋で、感動を喜ぶ声がしました。