2020年     5年後のわたしへ

  2020年   5年後のわたしへ





  5年前、自分あての手紙を書いた。

  団体のワークに、参加中のプラン。

  その手紙が、今年舞い戻ってきた。




  
  手紙を送っていただいたまま、開封をしていない。

  中身を読むより、繰り返し手紙を書いてみたい。

  その気持ちになった、まだ生きているという驚き。





  何ができるか、何を為しえたか。

  そういうことばかりに神経が働いて、いま生きている

  ということ、自分の感情を大切にしようとしない。





  ある新年会。

  たまたま集ったメンバーの話しにつきる。

  60、70歳になると”死の話”が多くなると。

  暗い話は、嫌だという。





  住み開きという、プロジェクトをやるという。

  憩いの場所などのまちづくり。

  いいことだと思う、外へ出ていくあるいは、家へ招く。

  引きこもり、外へ出ていかない。

  年寄だけでなく、若い人も外へ出ていかない。

  それが、全ての禍につながってくる。






  社会の風を仰がない、面と向かって会話をしない。

  外へ出ていくとは、その逆行のスタイルと思う。

  時代は、「繋がる」という合言葉で動いていますが、

  現実は全く異なっている。

  関係がない、無縁であることを幸いにして、

  自分の楽しみを追い求めているだけに過ぎない。





  マスの芸術を我々は注目してきたが、実際はそうではない。

  表現される材料は限られており、プライバシーは除かれる。

  ほんらい個人が表現したいのは、人に魅せたい部分。

  自分が訴えたいことに、重きが置かれる。

  その発信を貴重だと思った、人のみが受け取る。







  社会のなかで、何かを成し遂げた。

  そのことに何の意味があろうか、ただの普通の人でいい。

  いまの私、普通でいることを認めてくれる人と、話がしたい。

  私に何も期待しない、普通の人。  

  




  文章や絵画・音楽で表現できる人は、才能を持った人しかできない。

  人と寄り添って、話をする。

  何でも受け入れる、そこに強制はない。

  お互い相手を尊重して、どこまで聞き取れるか。

  そこに人生の深みが、大きな意味をもつのではないか。






  強制は、人を押しのける。

  なにかしら強いるものは、次に誰かを退ける。

  柔軟にいきるのは、私たち年老いた者の誇り。

  なにもそこまで、やる必要はない。