映画とテレビ鑑賞

 映画とテレビ鑑賞




  コミュニケーションの話題から。

  繋がっているという、宣伝が強くされてきた。

  その繋がっていることで、人々を幸せに導いているか

  といったことを考えてみたい。






  電車内で立ったまま、同乗している客の様子を眺めている。

  こちらが座ったまま、凝視することは失礼になるかもしれない。

  私も立ち、お互いさまなので「見ていて」自然だと思う。






  乳母車が流行っている、家庭で必要なモノなんだろうか。

  子どもが生まれる度、自転車をもたすようになる。

  その前段階として乳母車をもっているのではないか。

  これが、自家用車をもっている家庭だと、買うのを躊躇するだろう。






  車は、家から家まで、乗りっぱなしで移動できる。

  日本の法律で制限されない道路で、カバーされている。

  車いすや歩行困難な人にとって、道を歩くために、

  車は邪魔な存在でしかない。

  保護されるに好都合だが、自立するには向いていない。

  まさに幼児や子どもにとり、自動車は安全なものでありえない。






  乳母車に子どもをのせて移動している、母親が立って居る。

  その子供が「ぐずり始めた」、そこでとり出したのが「ケイタイ」。

  何を見せているかと思えば、アニメの動画である。

  驚いた、この調子なら大人になるまで「ケイタイ」であやすつもりなのか。






  人と人のコミュニケーションは、人生のなかでただの一瞬でしかない。

  そのことは過ごしてきた大人が、回想すればすぐにわかる。

  人生は、短いですよ。






大学の映写会でドキュメンタリーを見る機会があった。

  映像を見る人に、ケイタイをもって入る若い人がいる。

  その姿をみて、今までの私たちの文化が崩落していっている

  のを身近に感じてしまう。

  




  映像の題材は、ほとんどテレビの切れ端。

  さらに言えば民間放送の、数少ない番組となっている。

  日常の時間帯に見れる、番組となっていない。

  媒体として認められていないで、細々と放送しているのが実体。

  私たちが、こういうシンポとして扱っているだけに過ぎない。





  テレビというのは、元来観賞用として使っていない、

  いつも聞き流しのスタイルで、BGMのような扱いをしてきた。

  その典型が、若い人たちのこういったシンポでの観方に写る。

  仲間と話しながら、視聴をするというスタイルだ。






もちろん映画館に入ったことがない、若者が多いとは思っていない。

  一人で入るという選択をしないタイプの人が、ほとんどだろう。

  それを感じるのは、集中力だったり、映像に食いつく強さ。

  スクリーン横でアナウンスする、学生スタッフの声。

  もぞもぞ言って、何を言っているのかわからない。

  老いた私がわからないのだから、若者が聞いているわけではない。

  テレビの扱いとは、総じてそういうものなのだ。






  人と接するとき、まともに正面を向いて、話をすることを知っているか。

  この映写会の中だけでも、この人としての最低限のルールを保とうとする。

  そういう雰囲気作りを大切にしようとする、心遣いが見られない。

  ここに文化の凋落を、確信してしまう。






  ケイタイで幼児をあやしている、電車内の母親に移る。

  母親がなぜ自分の声で、子どもと会話をして「聞き取ろう」としないのか。

  電車という時間と場所に閉じ込められた空間で。

  子どもと二人だけで、戯れることができないのか。

  母親が自分の幼い時、そういったあやされ方をした経験があるのか。

  「私のような傍観者」が見ていることを、内心で微笑んでいるとか。






  映画など人の演技を見る力。

  人に自分の考えを、言葉で表現するちから。

  人の顔をみて、お互いの考えを照らし合わせ、

  次のあり方を寄せ合って考えるちから。

  残念ながら、ケイタイを使ってコミュニケーションする場合、

  最終の結果でしか立ち会わない。

  



  労働という、もっとも深く関わっている領域なのに、

  人生のなかで軽く扱われていると、いまの時代に感じる。

  女性の立場は、全てを呪い尽くしているかのようだ。

 



  近い将来、テレビや映画を観たりせず、

  人とまともな応対のできない、大人げない人が増えないことを、

  切に祈っております。