人権、じんけんと言いますが〜

 人権、じんけんと言いますが〜



  人の生き死に、自分の生き死にを見つめてみようとしない。

  その考えに何があるのか、昨日は書いてみました。

  死への受容しかないと、感じています。





  
  巷に虐待の事件が、絶え間なく続いています。

  親戚であったり、子どもだったり、介護者であったり。

  驚くばかりです、その理由は、お金と肉親の存在が密接に

  関わっているからだと思います。

  その年金の存在が、希薄になりつつあります。

  いつまでも親・祖父母を、大事にする理由がなくなったのです。





  男と女が、結婚をすると、子どもを育てることの意味を

  問い直す時が訪れます。

  ひとり、ふたり、三人と。

  今まで人権について考えたことがあったでしょうか。

  クラスでいじめにあった時、議論をしたことがありましたか。







  警笛を鳴らせば、除けてくれるだろう、という運転手。

  歩道をまたがって、停車していれば、歩行者は避けてくれるだろう。

  ちりん、ちりんと鳴らせば、止まってくれる歩行者。

  いままで低開発国と嘲笑っていた、交通感覚とほとんど変わりません。

  ひき逃げは、もう当たり前なのです。







  人権という言葉が、直も声高に叫ばれる背景は、なぜなのでしょう。

  人々の胸の内に、「人権を無視する」こころが住み込んでいるからです。

  いじめが、ハラスメントが、虐待が、

  喫煙と同じ、公共の中でうごめいているからこそ、声を出すのです。

  あなたの家庭にも、潜んでいます。








  人権、その言葉は、国や自治体が声を大にして言うものではない。

  組織や団体が、発言するモノでもないと思います。

  憲法などのように、法でもって人を守ってくれるという、保証を与えるものでもない。

  ひとり一人の、自分の生き方に関わった問題だと思います。

  親から子へ、何を伝えますか。

  それが無くなった時、親として子として、存在はなくなるのではないか。






  

  もし、その家族で子どもがいないとき、親になりうる歳の人たちは、

  何を人に伝えようとして、生きていくのでしょう。

  たとえ親でなくても、自分が生きていく支えとなるもの、

  それが、「声に出して言う人権でない」・・・

  自分の生き方の指針となるものではないでしょうか。

  ひとり一人が、自分の心で感じるものです。

  





  ここで「人権」の取り組みは、国や自治体が何もしていない。

  それは、原発もしかり、ヘイトスピーチもしかり、いじめもしかり。

  自分の仕事だと、理解をしていないのが、国なのです。

  人権無視の組織であることを、前提にして展開しています。

  個人の意識をすり抜けて、団体としての行動として認めさせようとしています。

  逃げています、もう国の体を為していません。

  人権を訴えるのは、組織ではなく、個人ひとりの思いなのです。