死への受容があつい、日本人

死への受容があつい、日本人




  この世とあの世を隔てた壁は、板一枚もないのか。

  日常、「死ぬ」「死ね」が飛び出す会話。

  人の生のうち、高齢者とか老人を見ないかのセリフ。

  生きたいとか、死にたいと強いことばを吐き出さない。

  圧政だと言われてきた江戸時代、百姓のような人生を、

  我々は、たどっているのではないか。

  老人は早く死んでほしいと、為政者に叩かれる。







  人が死んでも、なぜ死に至ったのか、わけを知りたいと思わない風潮。

  行き倒れ、心中でもしかり、自殺でも同じ。

  国として、自治体として、医学的にその原因を追究しない。

  親として、子として、孫としても、その理由を求めようとしない。

  まるで生きていることが疎ましいかのような、人の人生に囲まれている。

  学問が、存在していないかのような社会だ。





  
  今まで死ぬようなタイミングは、いくらでもあった。

  それをすり抜けて、「なぜ生きているのか」、いま考えてみる。

  確か43歳あたりまでタバコを吸っていた、なぜか。

  そのタバコのことを、医学者の立場から教えてもらった。








  オーストラリアでは、国を挙げて喫煙者を減らすことを懸命にやっている。

  タバコを吸うことによって肺炎やがんとなり、医療を受けなければならない。

  そのことを国民に周知させることに、国は力を注いでいる。この国は財務省に任されているしかない。

  我々は、たかだか50年ほどの人生にたたかれて「人生の税金」を求められている。

  日本の国は、財務省に任されているに過ぎない。

  国民を長く生きさせて、さらに税金を収めさせることをせず死に追いやっている。

  蓄えられるはずの資産を、国は放棄している。

  国の浅はかさを、ここでも垣間見ることができる。








  国民の健康を脅かし、経済的な面から医療によってリスクをもたらす。

  ここでも情報の価値を高めることもせず、力を注ぐことなく、

  秘密にすることで 国民の人口を減らす。

  死への扉を開き、悪事そのものに加担する。

  喫煙は、大人だけだというのは、まやかしである。

  喫煙者の後には、受動喫煙者がついて回る、隣のベランダから煙が届いている。

  幼い子ども、出産できる女性が受動喫煙をし、人口を減らす。

  喫煙者を増やすことが、つまるところ国の将来を危うくしていることにつながる。

  人口が医療が、国の運命を握っていない、いまだから言える。

  喫煙者だけではない、彼らの周りにいる生活者の死期を早めるだけに過ぎない。







  ばったりと平均寿命が延びなくなった。

  高齢者の周りに住んでいる者たちが、たばこを喫煙することで入院を加速させる。

  国民を病院に通わせて、何が国の財政か、国民の人口を減らして何が財政か。

  やがて消滅するであろう、日本の経済を見せつけるよう。

  いま自治体の存在が、何ができるか試させられている。

  





   
  たばこを吸っている人を眺めてみて、何の益があるのか考えてみる。

  原発の縮図とぴったり重なって見える。

  生産者があり消費者がいる、その間に黙ったまま――情報を閉ざす、「国の姿勢」。

  喫煙者の医療状況を、国民に周知させない、医療費の増加の原因を追究しない。

  たばこを生産する業者、タバコを販売する業者。

  何が原因で死亡したのか、このことを追求しない国民たち。

  彼らは、「学問」「学び」というものを知らない。




  





  http://blog.goo.ne.jp/alcoholismgoo/e/fe215898848ded9c38cdbe3a76244e76











  幸いなことに、公共のなかでは喫煙ができないという流れが、生まれつつある。

  室外で喫煙をしている人たちを、ジーと眺めることができる。

  風体から、顔から眺めることが可能だ。

  女性が、増えてくるのはごく当たり前。

  まさか、白いマスクをかけている人は、いないでしょう。