公共の在り方

公共の在り方を、考えました



 視覚障害者の講演。
 この言葉づかいでいいのでしょうか。障がい者
 滅多に出会わない講演なので、2度と聞くことはない。


 そういう気持ちで、初めての図書館の出入り。
 駅から40分以上歩き、大きな施設の玄関をやっとみつける。
 ホールの中で、2時間前から打ち合わせをしているスタッフが。


 障害のない者が、みつけた入口で入場を待つ。。
 施設の場所がわからないため、探す時間を設けているのか、
 スタッフの数を見て、待たされてびっくり。


 講演に興味を持ったのは、視覚障害者が何を考え、
 何を語ろうとするのか。
 何を伝えたいのかと、訴えたいことは〜。


 登壇者は、障害者以外の健常者のこと、参加者を意識しているか、
 どうか微妙な感覚に襲われた。
 登壇する前から、聴講生同士の会話がやかましく聞こえた。
 聞くことより、会話をしたいためにこの場所を選んだように思えた。


 映画と同様、カーテンが開く前のこころもち。
 気持ちを落ち着かせて、講演のスピーチに集中しようとした。
 ライトのスポットを当てられ、観客に顔を向ける。


 私は、数分顔を見続けただけで、声だけを聴くことにした。
 

 はたしてこの場所で、健常者は何を考えればいいのだろう。
 目が見える幸せを、喜べばいいのだろうか。
 なぜか、この場所で健常者が、閉ざされた空間にいるかのような
 錯覚に襲われる。




 さわる行動。
 銅製の仏像を触るに、ネガティブな感情を催す。
 それは当たり前、像が汚れる、垢が付く。
 周りから叱責を受けるかもしれない、その身構えがあって初めて触ることができる。

 
 立場が変わり、視覚障害者であれば、触ることが常道なこと。
 障害者と健常者は、両者にとって共感しにくい立場なのか。
 その2者をつなぐようにして、この図書館がありホールがある。



 確かに、いまの時代は驚くほど「見る」、その感動を重視した文化に
 覆われた社会に生きている。
 それでいて本や文字を軽視し、絵ものがたり・写真(フェイスブック)文化だ。
 閉ざされた、領域かもしれない。



 人にとってモノをみるということ、人生のなかである時期に過ぎないと思う。
 メガネのない時は遠近を無視して、どの空間距離にもピント調整できた。
 それがメガネを掛けるようになって、遠・近距離と分けて使わなければならない。


 加齢すれば見えなくなる、前触れではないか。
 視覚障害は、誰にでもあることではないかと思っている。
 人が集まって、講演を聞きに来る。
 見に来るのではない。



 ホールの定員は、380名。
 視覚障害者とその介助者は無料。
 その他の受講者は、500円が必要です。
 

 区別というより、公共としての役割を意識していない。
 現実の社会をみる思いがしました。
 何をしなければいけないのか、それが理解されていない。



 聴視者を増やそうとしているのでしょうか、とてもそう思えない。
 少なくとも眼の見える人たちに、わかりやすいメッセージのような
 モノは皆無でした。
 介助者の話も聞きたかったのですが・・・・。



 図書館には入りませんでしたが、子ども図書館の
 玄関口で、誰ひとり入る子供を見ませんでした。
 図書館ではなく、コミュニティの場として、
 ほとんどの住民は、憩いの場所を求めていると思います。



 手に手に、スマートフォンをもって。