パタッ  パタッ  バタッ  バタッ

パタッ  パタ、   バタッ  バタッ

 雨の降る日に、外でよく聞かれるようになった音。
 風変わりな習慣が定着したものだ。
 事の起こりはなんだろうか、 「雪かしら」。


 そのたわいないことで、意外なことを引き起こす。
 人の家の前で、やるのならそれはそれでしきたりとして、
 通用するであろうが、「駅のプラットフォームで」
 「ビルやマンションの玄関で」やる所作になると問題を起こす、
 可能性がある。


 関東で、雨に濡れた傘を振り払い、雨粒を集める器具を見た。
 正式にその道具を使っているのを確認したのではないが、
 そのように使うと思しき設備を備えている。
 何か売らんかな商法の、ひとつだろう。

 
 大人がすることを子どもが真似する。
 子どもにパタッ、パタッ、とするように親が仕向ける。
 そのような愚かなしぐさを強いるような社会かもしれない。
 いわゆる今の日本人が行っている「除染」という行為と、
 共通する「移染」の行動に過ぎない。


 人に雨粒が、当たることを気にしない。
 傘についた汚れが、周りの人や建物に及ぼし、新たな仕事を
 生み出すかもしれない。
 罪な所作と言えないだろうか。


 ケイタイを使ったら「ダメ」、タバコを吸ったら「ダメ」。
 と決められた場所でもできない、大人たち。
 公衆便所で隠れてタバコを吸う大人たち。
 電車の中に居てもケイタイを使う。
 その大人たちを見て、子ども達も素直に真似をする。


 これらは、自分に子どもがいるからある意味で、
 教えるために自制するように働いた。
 それが、結婚しない子どもを作らない、という現実が
 作用して、人の目を気にしないようになった。
 その典型が、老いも若い者も電車に乗ると、
 座るための席を競い合って、求めようとしている。
 少なくともスポーツに興じている若者は、体力を
 つけるために「座る」のを避けたらどうか。



 同じような排除の論理が、どこかの残っている行動が
 あちこちにみられる。
 エスカレーターに乗っている人を追い越して、階段を上ったり
 降りたりする人。
 自分のしたいやりたいことで、周りの人に危害を与えるかもしれない、
 将棋倒しで倒れるかもしれないという、配慮がない。


 たびたび言っているように、歩道上に自転車が大きい顔で
 走りまくったり、連なって走る。
 最後は、死亡事件を巻き起こさないと社会が変わらない。
 それだけ風俗と言われる面で、グローバルにはなっていない。
 とても観光には、ほど遠い国、未開の土地になるのではないか。


 もっとも大きな罪は、音や臭いをまき散らす都会の風俗。
 音や臭いに鈍感になったこと。
 生の人の声を聞かず、音響器具の音に頼りすぎたかもしれない。