未来

未来


数年前、泊まった街で、再び泊まることになった。同じような道を散策して、私の価値観や時代など、街そのものが動いているのか問うてみた。丘の崩れかけた土地が見える、その場所に近づきたいと登り始めた。舗装されている道は、個人の庭のようになり行き止まる。



崩れかけた場所は、50センチ足らずの歩道を歩き、急角度でなければ見えない。他人が庭にしか見えないのだから、「迷い込んだ」と言って潜り込めるものではない。崩れた崖は、危険なものかどうか、関心のある者しかわからないのか。私的所有地か公共の土地かによって、危険や安全の情報をつかむことができるか左右する。



公共ではなく、個人所有であることが障害となり、崖の下にいる人たちに災害をもたらす。私たちが生きている社会は、この公共と私有とがあいまいに扱われている。大土地所有・奴隷制度がなくなり、民主主義が定着し、経済観念がすこぶる発達しているはずだった。



議事録・事業目的・プロジェクトの完遂度・統計資料から、時系列にその事業を分析、将来に活かす。これは、どんな事業でも果たさなければならないことであるにもかかわらず、その記録を残そうとはしない。企業の存続を考えるのであれば、欠かすことのできないもの。それが私企業であった、そのコストという概念を取払い動く公共企業。



ことの始まりは、「国鉄の民営化」。組合潰しが主流になり、働く者のプライドを売り払ってしまった。その後魔法の杖のように思って「民営化の波」は収まろうとはしない。資本主義は、経済を主眼に運営する概念であるはずなのに、コスト最小化を図らない。



私企業は、採算が悪化すれば、事業を解散すればそれで済む。年度毎に収支を決算し最終的に利益を分配すればよい。民営化されなかった国の事業は、人件費のコスト、その年度のプロジェクトの果たした功績、費用対効果を検証し、その責を問うということは一切しない。



私的所有の範囲は、人生における一生、せいぜい100年の計でしかない。しかし公共という概念はそれ以上、極論すれば「永久」の範疇にある。永久にある存在として、地球や自然、空気や水の問題を共有して長期的なコンセンサスを得なければならない。



公共で語られる概念は、将来を見すえた「未来」の構想を立てて論じなければならないのに、現況の経済をあらわす貨幣の為替や金利のことに右往左往している。貨幣である「円」のこと、すなわち日本のことしか頭にない。日本で「未来」のことを考えている人たちが、ほとんど生きていないということか。