勤められない、就職ができない

勤められない、就職ができない

高卒や大学生が就職できない状況が数年続いているというニュースを、現役の大学教授の講演で教えて頂きました。中身もそうですが、驚くべきことは個別の大学や全体の大学教授でこの話が共有化されていないという事実です。

高等教育に携わっている人たちが、就職情報に関心を抱いていない可能性を持っており、社会全体で考えていかなければなりません。大学だけでなく、無関心という現象が横行していると思われます。こういう状況なのですから、それに輪をかけて新聞やテレビなどマスコミでは情報を追いかけようとはしないでしょう。

社会全体のことを考える流れには、教育界の姿に眼を振り向ける必要がありそうです。命のことを度外視して、何でもかんでもお金で解決しようとする社会的風潮に覆われている日本にしては、理解できないお話です。高等教育そのものに、社会がコストとして負担する意味が果たしてあるのでしょうか。

需要に追いまくられた産業・企業が、全神経を注ぎ込んでフル生産しているかと思いきや、教育業界自体がノッキングしているのです。大学生だけでなく、高校生も就職できないというのは、教育界のみでなく国の骨幹そのものを問われるようなことです。社会そのものが、機能していないといっていいかもしれません。

自治体・団体組織も同じように、これから何をなすべきか、彼らの頭では思い浮かばないのです。自らの責任を回避することのみ、それに奔走する知識人のやり方を、私たちは絶え間なく見せつけられてきました。国の主導者たちは、事実の追及をしようとせず成り行きをなにも掴めていないのです。

専門家集団の本拠地である、高等教育の学び舎を卒業して、働ける場所を見いだせなかったら、国の先行きはどうなるでしょうか。高校・大学に行く理由があるでしょうか。その問いを高校・大学側として、答えられなければいけない機運が盛り上がってくるに違いありません。

教育だけでなく学ぶことの意味は、人として時空間を超えてそれぞれ個人に問われてきました。成長して大人になっても人を超えて団体組織として学ぶ姿勢は忘れてはなりません。
いまこの日本に覆っている社会は、教育とかかわりのない価値観で動いているとしか言えません。

いま書きました、高校・大学生が就職できないという情報は、私が受け取った現役の大学教授の「伝聞情報」でしかすぎません。社会全体が、現にある事実を目に入れないで動いているように思えてなりません。

日本人が劣化しているように、社会そのものがそれに応じて劣化しているのでしょう。就職率を高めるため、社会的な適応を図るよう、若者たちの行く末を見守ってやろうではありませんか。