ふるさと

ふるさと


小学校や中学校を過ごした場所、通学に利用した道路。それを思い浮かべたとき、眼に出てくるのが、高い校舎。人の多い街で育った自分を考える。小さい頃に育ったところでなく、自然に囲まれた住まいや風景を連想する。

その手っ取り早いのが、即席の旅。電車や船に乗り、降りたところは別世界という旅を味わってきた。最近では、電車を乗り継いでみても風景は変わらず、コンビニなど豊かなインフラに守られている。

望まなくても社会の流れは、便利な方向へ流れていく。振り返ってみると、開発されていない場所を“心のふるさと”として求めていた。言葉や人の違いを気にしないで、コンクリートのない土地をむやみに歩いていた。

風景の連続だけで、心は満たされなくなる。景色の後に人の気配を、懐かしんでいる。元気な少年、力強い男。興味ある人に、用もないのに近づいていくかもしれない。人と関わりを求めるかのように、さ迷い歩く。

さいころ住んでいた場所を探しているのではない。ふるさとを頭に浮かべて、ただ歩いているだけかもしれない。不審者にならぬよう、地元の人に余計な心配をかけないよう細心の注意をする。なんら危害を与える私、ではないことをあいさつや身体で表現する。

お金さえあれば、土地や家を借りたり買ったりして生活することができた。それを自由主義の証のように振る舞ってきたが、3・11震災後、事態は一変した。

被災地は、福島だけに終わらない。永久に日本中を巻き込む。住んでいた土地を離れるのは、好んですることではない。福島や日本を離れて住むというのは、それなりに重大な決意がいるものだろう。

住む家や職を失うのは、家族が亡くなった次の不幸にあげられる。その辛いことを周りの人たちに支えられてこそ、コミュニテイのありがたさがよくわかるもの。

生活している範囲に、深く関わって動いていなかったのがわかるようになった。インフラが発達していることで、自由に行き来し身の回りに注意を払わなかった。歳をとると動く範囲が、狭まるのだろうか。

ふるさとの土地柄は、一緒に住んでいる人たちと良好な関係を結んでいる。住民同士が支えあっているのを前提にして、日常の住まいや暮らしを想像する。隣人とうまく付き合えない交流は、残念なことにその土地に長く住むことはできない。

好きな場所に好きなだけ生活することが、できなくなった日本で、頭に残っている過去のふるさとを求めて土地探しができるだろうか。住まいと共に仕事も見つけなければ。