ねじれ国会と表現の自由

ねじれ国会と表現の自由


ネットのコミュニティの立ち上げ、NGO団体の呼びかけ、
と続いて参加する。
早急に、何かしら成し遂げるべく、賛否を取り上げようとする場面。


協力することは、否定はしない。
しかし、それまでに充分論議をするべきだと思うのだが・・・、
時間を惜しむかのように、会議は前へ進みたがる。


あのエスカレーターで一方を開け、空いた側を昇り降りを急ぐ御仁。
優先座席に陣取る、ケイタイを握った若者たち。
障害者用のトイレに閉じこもって、喫煙を繰り返す乗客たち。
もっと物事の本質をつかんで、本来あるルールを守ることができないのか。
すべて、この国民の自治意識にしかない。


従来の知恵は、障害者用トイレで喫煙をすると、
「警笛が流れる」というおどし文句だった。
それがいつの間にか、国の犯罪いっしょでたらめ、嘘ということになる。
何から何まで、<良心的な人>を蹴飛ばす、風潮が満ち溢れている。


会議場に集まった人は、テーブルに資料を出され、座るとすぐさま、
YES  OR  NO  の選択を強いられる。
まるで権力や、権限があるかのような扱われ方。


人を集め、組織として運営するのは、意見の違いが生じるのは当たり前。
集団として問題が起こる前に、今の立ち位置をしっかり確認することが、
いまやらなければならない最も大切なことなのに、時計の針が動くのを
気にしすぎてしまう。


まるで思春期の初恋のように、自分の頭にある願望だけが先行する。
人と交わろうとするのなら、自分の体験を語りお互いを知ることから始まる。
会社などの会議などで欠けているのが、責任の負いかた。
決定したことで、何が変わるか。


参加を呼びかけられた者が、存分に意見が言えない組織など、数分経てば
消えてなくなりそうに思うのだが。
議事の進行を、早急に進めたがる空気は、続いていく。



これから組織として、
必ず起こる問題を、ただ先延ばしにしているだけなのに。
誰も、それに気がつかないのか。


賛否を問う、決断することが目的ではない。
決断した後の結果に対して、責任があることを忘れている。
判断したことの、検証を行い次により良いものへつなげることが大事なのに消える。


モチベーションを高めるために、ありとあらゆる時間を割いて討議すべきなのに、
胡散霧消する、人との会話。
充分な討議をしなければ、問題が起こった時に共通のコンセンサスが少なければ、
新たな障害・壁が生じるのは明らかなのに、先送りをする。


誰も人の実績や、能力など評価しない。
問題が起こった時、誰が何ができるかしか、頭がいかない。
こんなことを考えていると、
既得権益のるつぼに入り込んでしまった。



こんな嘘で固めた社会で、子供たちがすくすくと育つと思われますか?
未来の見えない、日本です。