公人の闇

公人の闇



公人そのものでなく、公とはにある

ひっそりと暮らしている人を指すのでない

そもそも人は、他人と比べ突出したモノを求める




自分が振り返ると、生年月日に基づいて学校へ通う

新しいものを教わると同時に、運動場の号砲を聞いて

競争しながら走っていた

個人の自由なんてものは、あるようでない




かつての時代に戻って、同窓生に会いたいができない

劣等感と自己嫌悪に悩まされる

貧困と裕福の極みを知らされることだろう



公というものは、なにか?

個人の生死が、万人のためにある、そういう意味ではないかと

考え始めた

ひとりは万人のため、万人はひとりのため

これが、大きい視点で見れば言えるのではないか




ある人が亡くなった

その事実が広報されたとき、死因がわかる状況のときは知らされると思う

その死は、何であるか、それを知らされるべきか否か

亡くなった当人の意思は、どうであったのか、表明されるべきか




果たして、ひとりの人は本人だけで生きてこれたのか、

誰でもわかるように、長い歴史が生かしてきたのです

その関りを死によって、分かつべきではないでしょう。

本人が自分の意思でもって語らなかったとしても、死因は本人だけのものではないはずです。




最近この手の「死因」をテーマにしたドラマが、放映されています。

死、そのものが思考する・行動することを途絶えてしまうので、

他人に死後の対応を依頼するしかない

悲しい存在です





2011からかつてのような、日本ではありえません

政治からマスメディアにして、以前とは違います

社会そのものが、異なってしまったことをどう理解するのでしょう




ある本を読んで、社会的共通資本という言葉を知りました

くすり、医学、教育、技術、インフラあらゆるものが、この社会的共通資本ではないかと思います

そのベースになるものが、それぞれの死だと思います

生老病死すべてですが、ここに書かれていない、精神・こころに関するものがあるのです




人だけでなく、あらゆるもののこころが病んでいれば、健全ではいられない宿命を帯びている

宗教を信奉している者ではありません、「病は気から」を信じています

その事実を解明することが、科学だと思います

こころの中を分析できなければ、死を解明できないと





死を迎えれば、それですべてがピリオドだと、決めすぎています

特に自死の多い日本では、こころの科学を教育発展させる必要があります

本来宗教という範疇ではないことを、国民が納得しなければ、自死率は低くならない