殺すぞ

時代の変わり目、それを最も意識させるのが、この社会。
話をすることが、大事なことだと日本人の誰も、思っていない。
なぜこんな、事象が起こるのか。
後々の日本人に伝えるとすれば、どう表現すればいいのだろう。


話し合う材料として今までは、言葉を扱える、最低限の教育は全国民受けてきた。
ところが、ある時発信されるべき、言葉がかき消された。
それがスマートフォンとして、社会学的に伝えられるかもしれない。
話し合うことが大切だと、国民に共通認識されていない。


その最たるものが、この国の政治のありよう。
意見を闘わせていない、議論をしていない。
人の意見を聞かない、それは政党間でも言えるし、国民と政治家の間でも言える。
討論するということを、誰もしない。
討論をしなかったことが、歴史的に記録として残らないのか。
そんなことはないと思う。


ところが、いま生きている日本人同士でも、同じ日本語を使って会話ができるとは、
ここ数年後で議論できなくなる。
言葉そのものは、世代間で伝えるに互い壁を持っている。
よくわかるとすれば、一緒に暮らしていれば、共通体験を過ごしている。
その際立ったものが、肉体労働と知的労働の体験をしたかどうか。
男の行為と女の行為とは、同じではないし、価値観を近づけるのは厄介なこと。


殺すぞ
そのニュースが伝わったとき、この事件は、この〜。
話す、会話する、議論するという、日常的なものは、一般的にされているだろうが
本質的なところまで、突き詰めてやっていないからこそ、こんな事態になった。


人を人として、扱わない。
対等に扱わなくても、その周りにいる人が、誰も非難しない〜
そんな「非」社会的な領域だと思う、いわば学校に行ったことがない?
それを問いたいような、ヒューマン・コミュニケーションだと感じる。
これが、数年続くと、大変な人種になってしまう。



それもこれも、あの〇〇首相の国民に向けた対応から、つながっていると思う。
うそを言って、政治ができると思っているのだから。
それが個人だけでなく、組織的に国民を欺いているのだから、修正しようがない。
学問が、育たない。