集団面接

 集団面接



  長い間、忘れていた面接を受ける。

  こちらが試験を受けるのでなく、あちら側を試してみようと

  気軽く構えた。

  そうみると、次から次へと目についてくる。




  待機していると「集団面接」という流れになってきた。

  この集団という経験は、したことがない。

  おかしな時代だ、人をなめているとしか見えない。




  対座して、その場になってみると自分の「視線」すら定まらない。

  やってみると、試験官(数人)対受ける者(数人)なのだから、

  試験官が問うことで、それにこたえる相手は決められる。

  他者の会話は聞こえるのだが、自分と関わりのないことに、

  簡単に処理されてしまう。

  


  相談とか会議というのは、共通な問題として扱う必要があるから、

  人がかき集められるもの。話を制限するのなら、声をかける必要はなかった。

  その場になってみると、何が話せるのかわからないくなる。

  こういう場は、たぶん日本人だから「設けた」のだろうと思う。




  いわば他人の「会話」を無理強いされて、聞かされる。

  その聞かされたことに、別の他者が応ずることができるか。

  他者が黙っていることを前提にして、集団面接が行われている。

  日本人は、おとなしいと見くびられているのだ。




  確かめたり相談するために、みんな集まって議論する。

  そんな組合の組織に関わったことのない、日本人。

  その一方の流れだけ強いて、話しようと試みる場。

  つまり、耳つんぼ。




  大変なグループに関わろうとしていた、通常は就職であったり

  バイト先だったりする。

  今回は、ボランティアの応募先、無償である。

  この結果からみると、このボランティアという言葉さえ曖昧。


  
  相談することが、学ぶこと社会の進歩につながっていた。

  国がやろうとする共謀罪もあれだ、頭のない年寄りがこしらえる。

  何もかも八方ふさがりにする、未来がない。


  

  ボランティアの団体が、こういう選択をしているのを知った。

  人権を軽く見ているのではないか。
  
  人の意見を聞こうとしない、こんなグループは先が知れている。


  議論を遮る組織は、もう見飽きました。