感性のまち

感性のまち




  本を読めない

  映画を見たくない

  外に出歩きたくない

  ちょうど1週間前、人の流れを見ていた。




  有名店の前、チラシ配り、ドリンクの販売を。

  2、3人がとうとう6人ぐらいになった。

  店前に自転車が留められ、駐輪場が設けられている。

  小さくはない、大きな店の昼時まえ。




  まるで食事客が、入っていないような”人員配置”

  この店まえで、働いているチームのリーダーは?

  なんでもってこの人数を、チラシ配布に動員するのか?

  誰が運営しているの、責任者は?





  この様子を見て取り、理解する判断する人が現れない?

  この店で、この先働く人は、現れない?

  将来、この店はつぶれるの。





  見知らぬ人に、アピールする、別のグループ。

  劇の入場券を配ろうと、値段書きのチラシを見せる若者7人ほど。

  駅の前で対象者に向かっては、呼びかけて話している。





  身ぎれいな女性たちに、声をかけていた。

  時間がたつと、幼児を抱えた母親にも向けている。

  呼びかけようと集まっているものは、男ばかりではない。

  しかし女性たちは、積極的に人に話しかけない。




  ここで、数人がベンチに座って、雑談をしたり、飲み物を買い求めたりする。

  疑問が出てくる、この集まっているグループは、共同で働いているのか。

  ボランテァで動いているのか、なら交代で順番にすればいいのでは?

  ばらばらの動きをしていて、メンバー同士が納得するのか?





  人の動きを見ているだけで、その組織の将来も見える。

  そんな組織に、加わりたいと思うか。

  ひと目見てわかるものを、理解できない者が次々とだまされる。

  詐欺のように、だまそうとして噓を言わないまでも、何も考えずに動く人ばかり。

  



  この現象の始まりは、インフラの官営と民営の選択。

  今の時代は、民営という言葉さえ、死語になった。

  次は、公務員、警察、裁判、司法。自治体そのもの。

  自治体が、そこにある必然性がなくなる。





  監視社会というが、ことが起こって騒ぎになり、判断を下す材料でしかない。

  後で見るよりも、いま起こっていることを、いま見える”感性”がなければ、

  いま生きていることの意味がない。

  本を読む、映像を見る、経験をする、でもすべて理解できる”感性”は、

  誰が育てるわけではない、自分で感じるしかない。