丑三つの村
1983年松竹富士系にて公開。当時、映倫が残虐的と判断、R−18にしてされた。
廃版後、2009年再発売された。
ネットで何の気なしに観ていると、描かれている時期に注目する。
映像にして表現されることの意味を、考えさせられる。
西村望のノンフィクション小説、1938年、岡山県苫田郡西加茂村で
発生した津山事件を題材にしている。
戦時中というのが、興味深い。
映像としてなぜ残されたのか、表現の対象として描かれた時期を見なければ
わからない気がする。
将来のこと先がみえない、暗い時期だからこそ押し寄せてくるパッシング。
夜這いが描かれていました、性がおおらかに叫ばれていたかもしれません。
戦争の波を被らざるを得なかった、民衆にとっては一時の休息かも。
戦時を真正面にとらえないからこそ、戦争を知らない世代は特別視します。
家族がすべて、重きを占めていました。
それがばらばらになって、女と男に分かれたのでしょう。
戦後70年、殺し合いとは決別していたはずなのに。
たった一人で、19人を殺した若者が現れたのです。
人を殺したいと思って、人を初めて殺すのと違います。
日常を共にした、知人19人をひとりで殺したのです。
人を殺すというのは、
自分を殺すと同じぐらいの、エネルギーを費やするものだと。
映像を見るだけでも、疲れます。
自分が経験した人生を、抹殺するに等しい行為です。
1938年から2016年、この間セクシュアリティの動きを感じます。
家族における人と人の関係が、不確かなものになっています。
シングルが、家計のベースになってはいないですか。
家を借りひとりで住む。
家庭の中に、子どもが入りこまない。
子どものいない家庭が、望まれている社会。
子どもがいない国の、社会です。
公務員のいない国です。
非正規労働者の国が、未来の社会。