孤独死

 
 ドキュメンタリー

 ならびに孤独死




 テレビを見ていない者が、釘づけにされた画像。

 部屋の片づけと、ゴミだめの内部。まさに自分の部屋と見違えた。

 ネットの映像でつかめられないのが、いつ放映されたかの日時。




 どこから、その時代を推測するか、映像から考えてしまう。

 そもそも、ドキュメンタリー自体が需要の低迷が山あり谷あり。

 この種の映像を誰が興味を持つか、あいまいな社会になった。




 孤独死に並行した題として、引きこもりが挙がってくる。

 外に出かけることなしに、はりこんだゲームの世界。

 外へ出ていかなくとも、食べていくことができる。

 周りの人が、何かの面で支えてくれていた。




 その家族に相当する人が、いなくなったとき、

 死が迫ってくる。

 飢餓が追ってくる、貧困だ。

 あべチャンネルの世界、もう後戻りはできない。




 被写体の当事者が、どういうわけでそのような立場に追いつめられたのか、

 考えさせるところに意味があります。

 個人情報であるため伝えられない、顔と場所をぼかされて登場します。

 ぼかされることから真実性を隠されて、見る方の哀れさを感じる。




 テレビで放映しようとして、カメラ取材したものの、一度放映し

 てしまうと、テレビ視聴者の注目を集められなくなったのでしょう。

 ひとり暮らしや孤独死は、自分と関わりがない世界だと思い込む人が、

 眺めているのでしょう。



  
 情報の需要と供給が、かみ合わない状況が進んでいる。

 年齢に関係なく、ひとり暮らしが引き継がれている。

 あとは、いかにして社会とかかわり続けていけるか、

 人と会話し続けていられるか、隣近所の役割は大きい。




 ゴミだめの部屋から、はい出さないといけない。

 死に関する話題が、巷に流れていないと知る。