看取る

看取る





 介護や医療の講演やセミナーに、何度も参加しお世話になった。

 神戸・大阪と各地に出かけ、足の軽さに敬服していました。

 参加すべて、費用を徴収されたことはありません。

 学術的な視点でもって、数たくさん教わりました。





 本当に何もかも助かりました。

 それが、活動の方向を修正せざるを得なくなったと、

 参加者に内輪話のようなことをされました。

 参加費を徴収する、今までされたことがないそうです。

 これから集めれば集めたで、さらなる面倒さが生じるらしい。

 





 10回ぐらい、セミナーに参加しましたが、今日みたいに心の内を

 明かされたのは初めてでした。これからの在り方を模索するという、

 その時点で「看取る」という議論され、同時に「看取られ方」が

 患者側の〜当事者感覚の意見が交わされました。

 このセミナーで、いろんな角度から意見が出てくる。

 私には醍醐味がありました。






 このセミナーがなくなると、その図を頭に描き、寂しくなります。

 もっともっと話をしなければ、私には次へ進めません。

 当事者感覚をもって、会合を開いていく必要性を感じます。

 何故か、介護する側、医療を施す側に地盤を残し、

 論議をしていると思います。

 



 最後かもしれない論議

 どのように看取るか、それを通り越して

 どのようにして看取ってもらうか、その精神性を考える論点に

 移りました。

 患者、介護される側からの意見が出てきました。

 ともすれば宗教性を考えさせる、領域まで踏み込みそうです。

 当事者感覚から発議されたことで、新しい出発を予告している

 かのようでした。





 この会の終着駅をたどるかのよう、

 この会を「看取る」ための予行演習のようです。