集団面会

集団面会






 生声を聞く、それが面会したような気分になる。

 声を出し話を聞く、まさに「癒された」その満足感がある。

 沈黙の時間がなかった、私は考える時間がなかった。

 悩みを聞く?カウンセリングといった?

 一回目の面談が終わり、次を待っている間、

 他の面会チームの方と、交わす時が生まれた。






 何処でもあるワークショップように、私のような年配者が大勢いる。

 今回は学卒に近い層も、面会に加わっている。

 発端が新聞記事らしい、私は知らない。

 初めに出たのは、「夜泣き」ではない、公開泣きのこと。

 この施設で乳母車に載せた幼児を、10分ぐらい泣かせたまま、

 抱っこもせず他人のように、様子を探る大人に視線を返す

 母親らしき人がいた。

 パッと見で、「日本人」。




 その瞬間、泣き声を聞かされている者は、塀の外の異端者になる。

 その施設にいながら、まるでいないように黙さなければならない。

 この雰囲気を感じてもらえるか、私と同年代の女性に尋ねた。

 時代が連綿と続いても、親と子の感情表現は伝わっていると

 言えるだろうか、という疑いを問うた。

 親と子が感情を交流することは、喜びなのか苦しみなのか。






 幼児の泣き声を充分聞かされたものとして、この幼児の親は

 普通の神経でもって、子どもを育てているだろうかと考えてみる。

 塀の中ではなく、他人のいる公開の場である。

 家の中から、この母子は何か用事があって、外へ飛び出した。

 閉ざされた空間でなく、大人の視線が飛び交っている場所である。






 数十分経つのになぜ、子どもの泣き声が止まらないのか。

 この疑問を同年代と思しき女性に、尋ねてみた。

 おしめのこと、排せつ後の処理。

 肌のトラブルなど経験から説明をしてもらった。

 私の感性と変わらない人だと確信をした、その感性でもない

 新しい母親が出現していると思う。




 
 母親や祖母と暮らしたことがあるか、共に生活をしたことがない

 それが感性に影響していると思う。

 育て方を身をもって教わるというか、その経験がない。

 簡単にいえば、コミュニケーションのやり方を家族間で受け継いでいない。

 



 子どもの育て方をまなぶ。

 親がいなかったときは、誰が教えてくれたか、たぶん昔は

 先生という存在が力になってくれただろう。

 この先生という存在も、ひところと違って、ごろっとすべてが変わった。

 新米の先生が、このコミュニケーションの取り方がわからない、悩む人が増えた。

 かつてそのやり方を教えた人たちが、何もできなくなった。






 ある意味で、コミュニティの崩壊に近い。

 先生の存在は、大変大きかった。

 身近な労働を見せる場でもあり、団体・集団としての在り方を

 伝える教科書でもあった。

 集団の在り方を決める、組合の見本として示す役割は大きかった。

 家族と集団の崩壊、組合が消滅した、日本の社会の特徴である。

 集団としての軸が消えてしまった。