私の ディスレクシア

 私の ディスレクシア




 

 俳優など演劇人が多く、日本人の例が少ない

 ようにみえる。演技するうえで、文字の理解

 は不可欠なものでない、その証明だと思う。

 トム・クルーズ






 反対からみると、日本人として活躍するには

 文字を判読する力がなければ、何もやれない

 羽目になるのか。演技するうえで、仲間はず

 れにされてしまう、のか。







 演技力をイメージしたうえ、自閉症をれいに

 浮かべてみる。自分以外の誰かと交わろうと

 するとき、表現する言葉や演じる力によって

 示すことができるか。頭のベースにあるもの

 とは何か。文字か、セリフか、演技か。

 (いわゆる演出)







 舞台に立つとき、

 芸術の表現や、演技で表すものとか、観客へ

 訴えたいものとは、いったい何だろうか。

 同一性に共感するとき、感動と驚き。

 表現を素直に受け取る、感受性のよさ。









 日本語という言語を通しての、理解というも

 のは一方向のみに通じる話だと思える。いま

 までの新聞と同じように、ケイタイでもって

 情報を共有しようとする。








 一斉にアイホーンを片手に持った、乗車風景。

 共通の媒体として新聞からケイタイへと切り

 替わったわけである。これを異常とは、言わ

 ないのだろうか。








 中学生の自殺が報じられ、その担当教諭がつる

 し上げられそうにある。性別が明らかにされて

 いないため、女性の雰囲気がある、パッシング

 されるだろう。個人的な要素でもって批判され

 そうにある。








 2011年から一貫して、無責任社会が蔓延して

 いる状況から脱皮しようとしない。その根本にあ

 るのは、国や自治体、さらに大企業の態度であり

 それを支持する国民の政治志向でしかない。

 個人としての意見がなければ、集団としての表明

 もない。その典型が、労働組合








 
 この場で、自らの発言ができないのなら、その

 職場を退去すべきではないでしょうか。そこに

 居たまま、働くとしても何ら利点らしきものは

 ありません。声を出せないような大人では、ま

 ともな大人として扱われず、社会に出て貢献す

 ることはできないでしょう。

 それが、アイホンを持つ人の習性だと信じて疑

 がわないものです。









 声を大にして、意見を述べる人がいない

 営業という生業が、成り立ちえない社会。

 話す言葉を介して、モノを説明する。

 この能力を軽く扱っているのが、いまの

 日本社会の風潮だと思います。そして、

 その彼らが目指している、流ちょうな言

 葉使いです。注目すべきは言葉でなくて、

 彼らの言動なのですが・・。

 その言動が、現代の大人の誰も、理解す

 る能力を備えていないのです。