少年の死と若者の死


 少年の死と若者の死



 世間に名の知れた人物であれば、亡くなったという事実は

 最低、新聞の役目になっている。

 亡くなったその理由を知りたいのは、ごく自然の話。

 自死と病気、事故なのか、その情報は社会に貢献する。





 その理由を明らかにしない、社会の風潮を感じる。

 まるで個人情報の如く、秘密裏に運ぼうとしている。

 それが少年であれば、情報を公開しないのは、

 私たちの社会が、あらぬ方向へ進んでいると示す。

 少年や若者が生きていたのを、証明しようとしない、

 個人を尊重しようとしない社会だと思う。







 亡くなった少年、若者の死を認めない社会は異常です。

 頭で亡くなった少年や若者は少ないと考えても、

 それが今の日本で当たり前のことになっている。

 理由を明らかにしようとしない、社会情報が行き渡っていない、

 発展途上国と変わらない世界だと感じる。






 バス事故で14人が死亡した。

 この情報は、海外のニュースだと当初は思った。

 しかし、それが学生集団であることを知って、

 この社会が「人に引きずられて」動く、

 「意思を持たない人の」哀れさを感じた。

 友だちと知人と楽しみを分かち合う、そのことを重視するあまり

 行動を共にした。






 ショッピングストアに入ろうとする車で、道路が渋滞する。

 大規模な施設であればあるほど、土日はひしめき合う。

 あらゆる方向へ動き進むのが、車の役目なのに、その車は

 道路を占めてよちよちと動く。

 言いたいのは、個性的な行動をしないようになったこと。

 もとをただせば、車を必要としていないのではないか、

 日本の人口が減れば、車の所有台数も少なくなり、

 道路の距離を短くしなければならないはず。






 信号を待っている時間など、もう我慢ができない。






 少年の死は、若者の死に比べて、もっと社会的に考える

 必要がある、しかし今の社会は誰もが無視している。

 教師、管理者、学校、自治体、警察、保護者。

 若者に対する責任など、だれも意識せず、その理由を挙げようと

 この社会はしようとしない。

 無責任社会は、このまま続くしかないのか。