落ち梅記
落ち梅記 発行 朗読社
著者 山本周五郎
朗読 守屋政子
那波一寿
家老格の沢渡家の嫡男金之助は遠縁のこれも佐竹家の
娘由利恵とは幼なじみであった。金之助は由利恵とは
っきり約束したわけではないが、大きくなったら彼女
は沢渡の嫁になると、なんとなく思っていた。しかし
ある日金之助は由利恵に呼び出され、自分は金之助の
友人でもある公郷半三郎の嫁になると告げられた。
野菊の如き君なりき 木下恵介 監督
著作 伊藤佐千夫
出演 田村高廣
笠 智衆
田中晋二
教えられた、彼の業績はエゴを知らしめたと。
朗読を聞いて、生と死、貧困と孤独。
究極は、死への問いかけだと思った。
本をじっくり読めば、深まるだろうに
もう今の私には、できない。
エゴ
夏目漱石の朗読を聞いて、エゴという言葉を思い出せなかった。
その私の解釈が、間違っているかもしれない。
いまの私たち暮らしの中で、エゴという言葉を使っているだろうか。
上記の『落ち梅記』『野菊の如き君なりき』。
恋愛の過程で、結婚の話が持ち上がってくる。
好きなら好きと
当人同士が好きだと告白、相思相愛の間柄になっても、
なおも添い遂げられない。
それを妨げるものが、家であったり格式。
家や家族を重視していた。男女二人とも家を飛び出さなかった。
そこにエゴという形で現れなかったのが、漱石時代だったのではないか。
時代は、大きく変わってしまった。
力のない貧しい者が、抑えられている。
裕福なものが、現代において貧しい者を労働に強いる。
いまは、300年おろか、1、2000年と
後世の日本人へ強いる〜
原発労働が永遠に続き、その未来生きていく命を、
今生きているものが、既成事実として『それを』前面に行使している。
まさにエゴだと思うが・・・・。