生きながらえることと、医の論理

生きながらえることと、医の論理





  2011年を過ぎ、歯を治療しているとき、

  医者からレントゲンを撮るように言われました。

  レントゲンは、事実を写し撮るとるでしょうが、

  私は撮るのを断りました。





  レントゲンのリスクを跳ね除けたのです。

  真実を知らなくても、経験則からみえることがある。

  みえるところから、判断することに不満はありません。

  間違いも可とする、患者もいるのです。

  確信をもって決断することも大事でしょうが、

  レントゲンを受けたくないと、望みもしない患者の意思を

  尊重するのも医者ではないでしょうか。





  すべて丸呑みして、医術にお任せする時代は、終わったと思います。

  自分なりによりよく生きる、という価値観でもって過ごすのも人生。

  何も食べないで、苦しまないで死ぬこともありでは〜。

  それでも「平穏死」という言葉を医療従事者から、聞きつけました。

  多くの死を看取られた職業からして、当然でしょうが

  「平穏」の言葉に違和感を覚えます。

  平穏であろうとなかろうと、それはこれは、私の死です。




  特殊なレントゲン写真を撮るため、病院に泊まり、

  多大なリスクを抱えながら写真を撮られました。

  その写真は、手術をするに欠かせないモノだと感じます。

  現実、写真を撮られることに患者として危険がありました。





  2011年は、レントゲンの意味を考えさせる機会を与えました。

  何から何まで医者の指示通り受け取るのは、簡単です。

  リスクそのものを患者が考えなければ、レントゲンの必要性を

  医療従事者は答えようとはしてくれないでしょう。

  なぜならレントゲンは、医療の中に組み込まれているモノだからです。




  つまり医療の世界で、長い年月からレントゲンの障害を抱えてしまった

  被害者が「医療従事者」として存在している可能性があります。

  このことから医療は、レントゲンと切れない関係で繋がれているといえないでしょうか。

  医療の中に、組み込まれてしまったといえます。




  ここで言いたいことは、原発問題、放射能避難移住、ガンの動き。

  そしてレントゲンと医療業界の関係とガンの伸展など。

  客観的な情報を得るには、身の回りのことを充分見えるよう

  身辺を整理する必要があると思います。





  医療の上部組織として、レントゲンの従事する人たちに指示する〜

  特別なセクションを作るべきだと思います。

  ガンと闘い続ける人たちを、この国は育てようとしていません。

  身から錆びてしまっているのです。