縛られてしまう、誰からでもなく

  縛られてしまう、誰からでもなく





 
   芦原橋駅、なにわ市民センターを訪ねる。

   センターで、人は何をして、楽しんでいるのか。

   部屋の外へは、音が聞こえる。

   キューを打ち、カーンとかたい音。





   ドアには、注意書きがはりめぐらされている。

   なかで行われている、楽しみなことではない。

   奇声もなく、緩やかな音を奏でている。

   入ってみようとは思わなかった、異端者でしかない。




   センターには、老いと若き者の、楽しむ場所があった。

   広間は明るい日差しを浴び、新聞の読める空間がある。

   みんなで観るテレビ、テーブルや椅子がそろっている。

   何か欠けている、そう催しだ。

   誰かがプランを練って、楽しい企画をする。

   プレィヤーが、なかなか登場してこない。





   なにわ市民センターで西成公園の場所を尋ねた。

   「遠いですよ」、と助言をもらい引き下がらない。

   パソコンで調べ、地図を印刷してもらう。

   A4の用紙を、4分の1に引きちぎり、その小さい

   印刷された地図をもらう。

   私には読めない、あえてそのことを言えず。






   地図をもらって、私にとって”大きな発見”をした。

   その隣、川を渡ったところに「大正区」がある。

   大正区に行ったことはあるが、西成と繋がった道を

   行き来した経験が全くない。





   この歳になると、散策が最も楽しい運動になる。

   道というものは、それこそ合理性と必然性。

   物と物を運び、ひとと人を束ねるための通過点になるのが

   道路の、道の存在となる。






   大正区西成区をつなぐ道は、それほど多くはない。

   車や人、バスや電車。

   道として挙げられるものが少ない、間を結ぶものが限られている。

   それが、大正と西成ということに気づいた。






   その限られた道に支配されてしまうのが、普通の人。

   自転車などを乗り降りしない、歩くことをベースにした、

   人と人との交流である。

   その交流を阻むモノは、なにか。

   歩く範囲を狭めているモノはないか。

   自分で自分を縛っているのではないか。

   もっと、もっと散策したい。