現場を知らないということ

現場を知らないということ



  道路工事で、ある人は仕事をやり、端のほうでは、

  地べたに座り込んでいる人がいる。

  その様子を、通行人は、見てとれる。
 
  その工事をするため、道路と歩道における

  通行の制限しているわけである。




  ヌードル食品の中にある調味料の袋が、ふくらんでいる。

  調味料の重さを量って、パックしているように思えない。

  遠い国へ運んでゆく食品と、つくる人の心を感じさせる包装。

  タイ産の、日本語表示の商品である。



  
  後開発国に触れた時の、感覚を思い出させてくる。

  経済・エコノミーなどというが、時代を取り巻く環境は、悲観するばかり。

  海外で観てきたことが、いまの日本で見るようになり、

  この先行き暗いことが、人の働き具合を見て寂しくなる。




  頭に出てくるのが、あの311の時に菅元首相が視察に行くといった。

  次は、この解釈改憲、閣僚決定。安倍も同じ、頭だけで妄想している。

  巷では、同じように「頭だけで」、経済を占っている。

  どこにでもある情報、ここにあるMLでも、論議はあるが中身がない。

  批評や意見ばかり、地に足の着いた論議はできなくなっている。

  自らが第三者的、頭でっかちなアイデアに終始してしまっている。




  現場をなぜ重視しないのか、それがわからない。

  現場そのものが、未来社会のあり方を、どうあるべきか指し示す、

  材料や資料になるものだと思うのだが、誰も関心を持たない。

  開発・改良、進歩・新しい発見。

  人としての、将来のありかたを創造しない社会。

  まさに、他人からみれば、学問のない世界です。




  2014・7・1

  大きく、足を踏み外しましたね。

  現場を知らないまま、まっすぐ進めるものだと思い込んでいる。

  狂気の世界です。

  現場を知らないことは、自慢できるものではない。

  予想もできない、過酷な出来事が起こる。