ないものねだり

ないものねだり


 誰が、どんな顔をして、何を言っているのか。
 それを知りたくて、出没すると言われている
 現場に数回、ようすをみました。


 声はすれど、姿が見えず、顔がみえない。
 なんとも不可思議な、存在です。


 デモストレーションで、アピールでしょう。
 しかし、チラシなど字づらで訴えられた、
 モノはありません。
 怒鳴り声?わめき?


 ネットでは、その在りようが映像として残されています。
 撮った人物は、外部の人ではなさそう。
 身内の人が、勇んで街宣を記録として残したもの。


 一度ネットに挙がった、映像はなくならない。
 二度とこういう活動は、繰り返すことはないと思います。
 今の時代に生まれた、ヘイト・スピーチは、別の時代に
 登場することはないでしょう。
 この地球上に、二度と現れることはない。





 告げ口、言いつける。
 良い目をみたい、欲を張る。
 ないものねだり。


 ヘイト・スピーチをそのように、受け取っています。
 喧嘩、罵声、自己表現、なんでもいい。
 本来自分ひとりで訴える行うもので、みんな寄ってたかって
 やるものとは思えません。


 けんか、人殺しの類でも、痴話げんかの範囲。
 私的、個人的なもので、集団でどうこう言うものでない。
 集団でないとできない、そこに独特の表現があると思う。
 この表現が、日本の歴史として組み込まれると思えない。



 ネット上に彼らの映像が、くっきり残されている。
 そこに見えるものは、「目立ちがりや」の性格、
 集団の意思に翻弄される、ひとり一人。
 冷静な行動など、期待できない。



 本来の目的は、経済的な特権を求めていたこと。
 そのことの表現で、デモ行動が法的制裁、罰金を科せられる。
 元も子もなくなる。
 経済的な恩恵を得ようと動いていたものが、逆な空回りをする。


 正直、「慰安婦」の問題とヘイト・スピーチ、関係がないと思っていました。
 それは、間違いのようです。
 

 ヘイトをがなり立て、叫ぶ者たちを育てたのは、この「慰安婦」などの歴史を
 教えなかった、親たちの責任にあるのだと思います。
 そういう想像力の生れない、家庭環境に育ったからでしょう。


 いま日本で起こっている出来事の、根本的なことは「人権( じんけん )」
 これがすべてに関わっていると思います。
 人権という思想が、国民に理解されていない。


 
 ひとを人と思わない、人権思想。
 そこから小さな家庭の平和、企業における繁栄、生き続けていく未来の国。
 人権がなければ、何も生まれないのです。
 しかし、いま頭の中を占めているのは、経済の繁栄、お金です。


 
 ヘイトスピーチをがなり立てる人が、組織の長となって活躍しているシーンを
 想像することができますか。
 経済的な蓄えをしょうというのなら、こういう活動をして
 誰が支援してくれるでしょうか。
 


 教育というシステムが、機能していないのを実感します。