夕陽の昇るとき

 劇団らせん館公演  2014

 作 多和田葉子 演出 嶋田三朗


 出演  市川ケイ 
     とりのかな
     Franzisk Rosa



STILL FUKUSHIMA Wenn die Abendsonne aufgeht


 夕陽の昇るとき



ゆうひがはなぢでそらをそめて、まっかか。
 あそびをやめていえにかえらないとならないじかん。

 じかんがぎゃくもどりして、
 にしのよぞらからゆうひがのぼると、よるがゆうがたになる。












映画を見るような気持で、会場に入りました。
 舞台にみえる、スポットの当てられた白い板間。
 演劇を見るのだなぁ、と緊張しました。



 原発に関する劇なんて、いままで見たことない。
 自分の行動範囲を
 振り返ってみても、思い浮かばなかった。


 原発の話を、聞きに行こうとする限り、原発の再稼働を許さない側。
 訴えや嘆きを聞いてあげるという、共感したい気持ちが強い。
 台詞ひとつ一つに、うなずいている自分の声を聞いた。


 
 テレビがないから見ていないが、こういう劇はやっていないだろう。
 新聞もラジオも、表現していないだろう。
 再稼働を狙っている日本なのだから、商業ペースに乗らないはず。


 別な面からみると、ひとりで子どもを育てている母親は大変なストレスを
 抱えて料理をし、こどもたちに行動の制限を強いているのだろう。
 母親自身が、精神的に潰れやすい環境に置かれている。


 そんな環境を強いている行政側が、どんなサポートをしているのか。
 何も考えられない、想像もできない。
 それも、秘密に違いない。

 

 ドイツ文化、ドイツ人、ドイツの眼がどこかあるようで、
 楽しい公演、「日本語」の言語を強調している内容だと思う。
 わかりやすい演劇とその内容。
 訴えることがたやすく、小学生でも理解できそうな話。



 訴えている台詞の意味が、よくわかりません。
 観客が笑いでもって、受け取られるものは別として、
 「言論の自由」「放射能の餌」だけを取り出してみても、
 何のことか理解できません。
 日本人が、日本語を聞いてわからないのですから、
 海外の人がわかるとは思えません。



 言論の自由
 その言葉尻だけをつかむのではなく、「言いたいことが言えない」
 その時の状況や、何がそのような環境に仕向けているのか、
 舞台の上にあげて欲しいのですが、具体的なものが見えてきませんでした。



 言論の自由
 誰しも、声を出すというのは、それなりに大変なのでしょう。
 こういった作品で、みんなの話題として持ちあがる。
 みんなが声をだし、人の言うことを聞くが、
 より良い明日を創ることになると思います。



 このような演劇を見なかったのは、私だけでしょうか?
 このような演劇を、もっと表現すべきでは〜。
 映画など受け身ばかりでなく、もっと声に出して
 人に訴えていきましょう。


 

 題材は、誰にでも共通する話です。
 しかし、若者に引き継ぐことのできる内容なのかというと、
 俳優と観客、原作とのかい離が生じているように思います。
 「日本語」を強調するうえで、さらに違和感を呼び起こします。



 ローザさんが、胸に掲げる。
 「大文字の母の下に、娘の字」の書かれた紙。
 「少年」は、登場するのですが、「男」「父親」が登場しない。
 その言葉の発言者が、一方の性に偏っていることを示したい。



 男、父親としての代弁者は、行政側・国・自治体・公務員を
 連想しています。
 女性の反対、しっかり職を充てられている性。
 次期戦闘員として、目されている性です。


 
 ITの世界で、若者と老人が論争するのは可能だが、
 演劇の分野で、高齢者との関わりがこれから薄くなる。
 演技をしているときの大声(圧力のある声)では、聞き取れても
 トークの会話では何を言っているのかわからない。
 それを埋めるものが、コンテキストや演じるしぐさであったりする。
 老人が声に出して表現し、それを聞きとる文化がなければ、誰にも伝わらない。
 書く読む文化を乗り越えて、台詞として吐かれた内容から、
 物事を深く考える文化、機会が生まれればいいと思う。