ひろしま

ひろしま   1953年  日教組作品

監督 関川秀雄
原作 長田新編「原爆の子」
出演 月丘夢路
   岡田英次
   原保美
   山田五十鈴
   薄田研二

解説:1945年8月6日、広島に原爆が投下された直後の惨状、その後の被災者たちの苦しみを、
執拗なリアリズムの映像で再現している。どんなにむごたらしい光景でも、過ちを再び
繰り返さないために眼をそむけることなく、しっかりと惨状を見つめ、記憶にとどめておかなければ
ならない時もある。世界最初の原爆を受けた日本人は、被爆ヒロシマの現実を直視し、全世界に
対しその真相と罪悪を訴え続けなければならない。

物語:戦後、何年か経た広島。
ある高校の英語の授業から物語が始まる。
授業中に1人の女生徒が鼻血を出して倒れる。原爆症のためである。
「この中に被ばくしたものは何人いるか」
英語の先生の問いに、生徒の三分の一が手を挙げた。

原爆投下の当日、彼らは小学生だった。


以上、パンフより。


おぞましいです。

ひとつ、映像に残すということ、それができない国民性。
遺体を映すことにこれ程、躊躇とする人種がいるものだろうか。
戦後物資がなかったとしても、2011年にフィルム・デジタルがあったはず。
だが、のこらない。


ふたつ、遺体に目を背ける。
その態度にこのフィクション映像である、この映像でさえ全国民が観ていないこと。
この映像を心に焼き付けていれば、原子力の世界が生まれるはずがない。
映画ができた当時から、原子力ムラに通じる組織があったのではないか。


廃炉を目指すために、映画復活ののろしをあげた。
この映画を見せるため、子どもたちを引き連れる大人。
映画の中身を説明しようとする大人をみた。
まるで「死出での旅」を話しするかのような、むつかしさなのか。


何も宗教的なことを伝えるむつかしさではない。
日常の身の回りに起こる、「死」にすぎない。
祖父母や親戚の死を、意識的に遠ざけて生きているのではないか。


クレジットで松山英太郎を読みました、あの生徒かなぁ。
1953年映画が製作された、8年の年月。
2011年の8年後、2019年このような映画が作り出せるでしょうか。