ノーム・チョムスキー

ノーム・チョムスキー
スーザン・ジョージ

包囲:デモクラシーとネオリベラリズムの罠
映画の中で、語られていることをもう少し、
ゆっくりと考えてみたいと思った。

著書の在庫があるかと、図書館で探してみたがなかった。
洋画といえば、米国産の映画を示すかのように、ヨーロッパは主流でない。
日本の社会は、アメリカの政治経済一色。

わが町で数少ない本棚から、
「組織の限界」 ケネス・J・アロー 村上㤗亮訳   を見つける。

1P
「もし私が自分自身のためにしないならば、だれが私のためにするのか。
 もし私が他の人のためにしないならば、私とは誰なのか。
 いまがそのときでないならば、いつがそのときなのか」。

これら三つの一連の文章には、個人の自己充足の要求と、社会的良心・
社会的行動の要求との間にあって、われわれが誰しも感じる緊張の本質が
示されている。  (↑ 書籍引用)

マクロからみれば、公共ということばが思い浮かぶ。
国とは、何ぞや。
そして、ミクロでは、企業や家族とは。
リーダーとは何、家長の役目とは何だったのか。

グローバルという言葉に浮かれて、倫理のことがあやふやになってきている。
倫理を欠落して、国や企業・個人が金に埋もれてしまっている。
この経済の成り立ちが、何によって安定を得ているか?
何がこの経済を支えているか、答えの定まらないうちに次の課題がやってくる。

何とも頼りない、精神的支柱であることか。
信仰や宗教などの、苦手な話のことではない。

http://fukusima-sokai.blogspot.jp/2012/01/blog-post_9391.html

震災を受けた自治体は、なぜ避難しないのか。
「除染」という「絵空事」、限界のない泥沼に入り込むことに、誰も防ぐことができない。
そこなしの沼に入り、右下がりの人口縮小と経済の非合理性をみせるしかない。

震災に打ちひしがれているときに、ブータンの国王から心からの支援を受けた。
幸福とは何か、それを確かめるために起こったかのような、震災。
その震災から復興、復旧をかなえるため、経済優先の道を歩むというのか。

倫理のある理念もなければ、合理性を踏まえた経済でもない「数字」の踊っている世界。
国としての責務を負わない当事者、公務員の縮小は彼らの眼中にない。
ジレンマに追いやられるしかない。

憲法違反、高裁の無効判決を受けて、一票の格差是正を考えるのに
議員数の削減しか頭にない、人たち。
彼らの政治の世界でやれる能力の限界を、即感じてしまう。
歳費の削減は、これまた「眼中にない」。

倫理もない、経済の成長性が望めない、どちらの道にもつながらない、
ふさがった道を歩もうとしているのが、いま。
東京電力関西電力の売り上げを伸ばそうと、国民そろって電力を消費しようと
考えているでしょうか?
右肩上がり、企業の電力消費を「国は」推奨しているでしょうか?

旗印にして、突き進もうとしているのが、TPPであり原発稼働でしかない。
この世界の流れに、どう乗り越えようとしているのか、政治。
先のこと、将来のことを何も考えていないことは、明らかでしょう。

彼らは、次の選挙がすみ、その後は息が付けると、思い込んでいる。
TPPとは、
国内法で定められた労働や環境などの規定を、
国際的な第三者機関で空洞化させる。
密室で交渉され、その協定が「ただちに」公表されない。

前段の、「組織の限界」を超えて、多国籍企業が他国に賠償を求めてくる、
その行為を認めるのが、TPPなのです。
貿易の相手である対象国には、賠償を支払う義務が発生します。
多国籍事業の訴訟により、参加国である日本は、賠償をしなくてはならない。

企業と企業の争いが深く国政と関わり、原資である国税を奪われていくのです。
今なお「東電や関電を放置している」ことは、無駄な国税の消費。
二つ目の、「東電・関電」が税に群がってきます。

大阪・富山の自治体が、官庁の立場を乗り越えて、経済界の中に
入り込もうとしています。
メディアは、真実を追求しない。
そのことの罪は、あまりにも大きすぎる。