パーマ・カルチャー

パーマ・カルチャー

インドで話は聞いていたが、日本で関西で何をしているのか?
具体的な活動を知りたいと、セミナーに参加する。
座学・実技まで、若者たちを呼び込むにこの時間では無理だ。
2時間半講師は言葉に詰まることなく、延々と人と自然の関わりを語った。
たぬきにだまされる祖母というくだりになって、私に問を投げかけた講師。
彼は、このセミナー参加者のなかで高い年齢と打ち明けられた。

質問に驚かされたのではない、高齢者・年長者として扱われたこと。
そうか、それほど <一見> わたしは年老いたのか。
それにもかかわらず <不思議と> 冷静に話を聞いていた、スピリチュアルなこと、自然と日常の生活との関わりについて。

自爆した震災を受けて、人と自然のセッションに変化が生じようとしているのか?
自然はうつりゆく、まるで何事もなかったように。
その自然の中で、そっと寄り添うように生きていくことができないだろうか?
そういったことを考え始めてきたのが、いまではないか。

瓦の屋根の上に、藁をのせて、藁葺きを施そうとする人。
藁葺きが、夏場には涼しさを招くという。
だが藁葺きは、消防法によって規制されているという。
便利なもの、早く片付けることが最良であるという考えを、
 <後戻り・振り返って> 
自分にとって、何が望ましいあり方か思いを馳せるのが、パーマカルチャーのようだ。

ひとつ鳥をさばく写真が、スクリーンに写される。
一人ひとりにある、精神性を問われる瞬間だろう。
まさに日常いたるところ、死が訪れるという、ごく当たり前のことを実体験するのだろう。
自分が日本人であることを、いっそう確信できる時ではないか?

この自然との関わりに想像たくましくすると、精神性・宗教性につながってくるような気がする。
今まで生きてきたなか、モノの豊かさ・心を中心に考えてきたのが、ここにきて自然に戻ろうとしていることになる。
堅牢な、壊れることないインフラを築くことが、それほど大事なことか?
災害を防げるとインフラを整備した、それを破壊した自然。
人は、再び < 元に戻す > ことが出来ると、誰か信じているのだろうか?
日本人なら、今まで誰しも自然に〜はむかうことをしなかった。

具体的な学習・活動内容を知ることなく、その場を去ることになった。
学ぶことより実践することが、セミナーが終結するような印象をうけた。
自分の生活に繋がるような、学びをする必要がある。
休日の散歩のように、ひと夏田舎に住んでみようといった、軽いのり気持ちでやってみたらどうだろう。


橋本憲一郎 さま
どうもありがとうございました。