対等

平等とか、対等とか。

そういう言葉に、あこがれるのは勝手だけれども、現実とは隔たりを感じる。
どこにでも住み場所は選べる、自由に行き来することが可能であった。
しかし、あの日から家族ともども移動することが出来なくなっている。
どこにでも移動や移住することが可能だが、働く場所が見つからないという。

道路や線路は、あらゆる方向へつながっているのだが災害でどこにも行けなくなる。
道路を走っていれば、必ず目的地に着くというのは、幻想にすぎない。
つくる側が、整備する側がしっかり仕事をするという前提で、この社会、人が動いてきた。
そこには、つくる側・整備する側の強い力が働いていた。
電気は使用量に応じた料金を払えば、いくらでも使えることが出来た。

あの日から、それが変わった。
吹き抜き構造のパブリックな空間、集中暖房冷房設備、細やかな調整のきかない空調。
絶えず外気との入れ替えを進めていた、換気扇。
6基のエレベーター設備可能な場所に、一基減らす電力量制限。
急いでエレベーターのドアを閉めていたのが、載ろうとする人が待ちくたびれるほど増えた。
早いことよりも、電力量を意識し始める。

エスカレーターは、足の不自由な人に最適な道具。
云われてきた注意は、エスカレーターで遊ばないでください。
黄色い線を踏まないで、危ないですよ。
なのに何を急いでいるのか、エスカレーターを片道車線にして長行列にする。
なぜ人が立っているエスカレーターに、横を通り抜けようとする輩がいるのだろう。
優先道路のように、片側をあけて人が一方向に立つ。
追いかけるように、エスカレーターの上を駆け上る輩。
いそいでいる、忙しい、ただそれだけ。
非常に危険なことが、都会人が理解していない。

あのケイタイを見ながら、歩く人とおなじ。
自分の使いたいときに自由に電気が使えるというのは、これから幻想になる。
使う時間・使う時刻によって電気料金が変わる。
この考えを広げると、電気の使い方をもっと厳格に庶民の側からコンセンサスを求めるべきだ。
読みたい新聞を買うか買わないか、自由だが、見もしない深夜放送を連日稼働することに非難は上がらないか?
消費税が掛かる営業に制限がなく、個人の自由を追求する電力に消費者が負担をする。
なぜこんなことが、できるのだろう。

電力一辺倒、電力が安全だと云われてきた、建築業界。
あの超高層マンションを維持するために、莫大な電力を要する建築にまだ執着している、設計者。
電気を使用する者の意見が、声になってでてこない。
市民生活に欠かせない電気と、経済市場競争で戦うための換算されるコスト。
電力を使用する権限を、企業だけの論理にゆだねることはできない。
国民の総意に基づいて、価値観をつくらなければならない。
国有化とは、そういうことなのだ。

電線を張めぐらせば思いのまま電気が流れる、というのは妄想である。
電線があれば、盗電が起こる。
だからこそ総意が、絶対条件なのだ。

空気、水、土、放射能と同じ。
電気によって国民が、つながっていることを意識するか、これからどうか?

電気そのものに、国民の税として介入していくならば、その電気の活用のしかたが国民の間で討議すべき。
コスト計算、損益計算、効率的経営に歩むなら、素直に国民の要求を満たすことが望ましい。
使用電力を80%90%と告知されるのであれば、電気を使用する国民が決断するのが望ましい。
誰が何人受信するかもわからない、深夜放送の電波を流すことを誰が認めたのだろう。