エネルギー

有限のエネルギー

小出裕章さんの講演とバイバイ原発のデモに参加するつもりでいた。
急に用事があって、出られなかった。
再度念のためと思って、ホームページを開けると Ustream するという。
萎えてしまった、そのぶん体力をつけるため散歩にいこうと歩いた。
デモに、自信が無くなった。

費用の対価効果というのか、電力量・電力の売買について考えさせられた。
日本の水道の高品質が、このまま維持できるかどうか?
蛇口から流れる水道は、その水<すべて>が飲み水可能の品質にしている。
コストのかかっている、高品質の水を洗車やトイレ、風呂水に使っていいものだろうか?

電力も同じ、いつでもどこでも蛇口から好きなだけ使えるようにしてきた。
いくらでも発電は可能とし、料金は同じように見える。
しかし、需要者によって価格を調整してきた。
日本人がいつでも理想としていた、対等や平等ではない。
電力業者の意のまま、独占のうえ高単価で販売されていた。
このような便利さ、電力の使用を望んできたのだろうか?

電気を使う場合、扱う器具によって意味合いが異なる。
店舗の照明器具と、手術時の計測器とは違う。
いっときなら電気がなくても我慢ができる、それが出来ないかと。
電気を使えない日が、あってもいい。
パソコンが動かないときがあっても可能。

酸素吸入、人工呼吸器を使用するに、いくら高くでも買わなくてはならない。
その電力を、いつ停電するかもわからない電力業者に頼るわけにはいかないだろう。
今まで当然だと思われてきた、インフラ設備は万全ではありえない。
モノによって人によっても、その劣化の激しさは目をそむけざるを得ない。
自動販売機の電力と、病院の電力は求められる仕事が別である。

消費者の側から、使用する電力量を制限して、使用量を少なくしたい。
こんな考えが、あってもいいはずだ。