どこかの場所で、対等とか平等とか

どこかの場所で、対等とか平等とか

政治家か、法律家か、発言していることで、対等平等という言葉を使っていた。
若い人に理想を語るのは、何も悪くはないが、現実を無視した発言は空虚に感じる。
立場の弱い人間が、いくらわめいてみても何のツッパリにもならないことは誰でも知っている。
対等・平等という言葉を使い、学生や子供じみた発言をする人をスポークスマンと仕立て上げた組織をさげすみたい。
これほど経済になりふり構わなくなったのは、人間の品性が低くなったからであり共通の話題を持つ機会に巡りあえず、孤立しているからだろう。

対等・平等の言葉を口から出さずとも、日頃から幼児たち・高齢者に接するに敬意を払うことができるか、その態度を観ればわかりそうなものである。
経済に洗脳されていればいるほど、整合性のない態度をせざるを得ない。
安穏な生活などそうやすやすと訪れるものではなさそう。

先日講義をうけた映画界の劣化と、Kodakの倒産が語られました。
フジフィルムと並ぶ二大映写フィルムメーカーが、100年あまりで無くなる。

その変動にふさわしく、映画館にも。
映画館の中は、まさにひとと人が同じ時を過ごし、共感をしあう場所です。
名も知らない、生活も知らない人同士が、同じ空間に集うのです。
その場所をめぐるため映画作りがなされるのですが、何もかも経済的原則が大手を振って動いているとは考えたくないものです。

時間の消費のしかた、人生の価値は人それぞれです。
新たな価値観が見える、映画館は無くなってほしくないものです