野菜、汚染、除染。

野菜、汚染、除染。

原発事故について 全国的には「脱原発」に、地元では「汚染」〜「除染」に関心がある、というメールを頂きました。
情報のスピードはますます速くなっていきます、まるで国民全体が政治家になった勢いです。
それもこれも、組織の誰もが当てにならない存在で、何もしてくれないことを知ったから。

福島の人が、疎開をしようかそれとも移住をしようか?
福島で作った野菜を子供たちに食べさすかどうか悩んでいる。
福島の野菜作りをどうすれば応援できるか、考える大人たち。
これがすべてを物語っています、国・自治体の存在が危ぶまれている証です。
昨日の集会で、福島の人たちにどういう応援をすればいいのか、わからないという質問があがりました。
当の福島の人たちで、疎開と移住の選択などで意見が分かれてきたという話です。
住民の意見をまとめるということに、力を注ぐことができない不協和音を生じている。

同じようにして少し離れた住民の、意見は定まりません。
がれきの処理に関し、福島から離れた住民ががれきを受け入れるかどうか、選択を苦慮しているということです。
ココでも国の対応が遅いにもかかわらず、住民が選択を迫られるという逆の現象が出てきている。
スピードのずれが生じているのです、国民・住民がもっと冷静になって考えるべきです。
原発の事故は、収束はしていません。そのことを誰もが記録の外に残して判断をしている。
ひとえに身近に放射能の犠牲になる人を見ていない、原発の反応を知らないだけ。

ある人が言っていることで、理解できることがありました。
除染除染と言って、避難すべき人を補償せず、除染費用を捻出することを国は考えている。
もう原発は収束したものとして国は舵を取ろうして、除染の話を持ちだした。
TPPも同じです、世界の中で原発は注目を浴びる存在なのに、モノの物流・貿易に関心を持っていこうとする。
たとえ金銭的に有利な立場になろうとしても、諸外国が日本の製品を買うかどうかは、この原発の収束そのものにかかってきているはずです。
食糧を輸入できたとしても、日本の製品は海外から求められるとは限っていません。
放射能で汚染されてしまう、可能性もあるのです。

国の判断があまりにも遅い面と、国の将来を決定する新たな選択を<失敗した国が>早急に決断するのは間違いです。
世論を重視した決定をしない限り、何度失敗しても許される大らかさは、未来の国民から非難されるしかない。
愚かな歴史を歩むことになる。
それを象徴するかのように、除染の仕事が先走っていることです。
これから二度三度と放射能が降り注ぐ可能性があるのです、それを考えず土についている放射能を寄せ集めることに、なんの意味もありません。
職を持たない人に新たな仕事を与える、不況対策でしかありません。
次の時代には、その寄せ集めた土をどこに移動しようかと考えて作業する人をつくるだけ。

いま現実にだれもが考えるべきは、記録としていかに残すかということに焦点があてられるべきです。
土地をいじくりまわして、新たな放射能汚染地区をつくる可能性もあるのです。
それほど国の対策は、判断を遅らせていることを自覚すべきです。
被災者の生活をどう守るか、考えることができない対処できない国がなぜ将来の日本経済の指針を見つけだすことができるのですか?
被災者の生活を守ること、これからの国民が生きることと直結するのです。
もし除染という作業をするのなら、その作業をした記録をながく住民に伝える方策をやらねばなりません。
まさに原発施設における作業と同じく、土地に張り付いた放射能をその時々計測しながら生活しなければなりません。

無為無策
降りかかった自分の目の前の、仕事にばかりしか頭が回らない、愚かな国民性がすべてを物語っています。