感情に支配される もの

感情に支配される、もの。

前回の続き。
ハグをみて感じることは、インディアンがどう思っているか?
彼らに聞く機会は、訪れなかった、日本と違いイスラム信仰をもつ国民を大勢抱えていること。
男女の行動は欧米と異なり規制されている、先入観かもしれない・・・。
お世話になったコミュニティに滞在して、数少ないインディアンの動きを注視しました。
彼らは、セレフォンを持っていました。
Face to Face 一対一、ひとり一人の会話の機会を得られるのですが、討議や会議の必要性をインディアンが感じないようでした。
彼らと話をしてみて、仲間意識や支え合うという表現をしないように感じました。
仲間を交えて会話することの、有意義性を認めていないようでした。

友達にお願いを云い、プロミスを交わしました。
その時あえて、共通の友達の前で約束をしました。私の立場、友達の立場を理解できるような第三者を設けています。
こうすればいらぬ誤解や、間違いを避けることができると思ったからです。
途中でその友達が、体の調子が悪いからやれないという返事がありました。
私は、それはこまる、代わりにだれかしてもらえないかと相談をします。
一対一で話をしていては、後で厄介なことに出くわすということが度々あるのです。
ケイタイだけでは、用をなしえません、これが社会性だと思います。

インディアンが二人だけのコミュニケーションを数回続けているのを見て、仲間意識を育てていこうとしてないと感じました。
これを私は、ソーシャル・スタンダードができていない状況だと解しました、一対一では考えが発展しません。
悩みを少なくするため、集団で助け合うようにするのが理想的な仲間意識をつくる前提だと思います。
人の行動をすることすべて、その社会性を絶えず問われるものなのです。
その交わされる対話の間に、ふさがるのがケイタイの存在なのです。

電車の中で見られる光景、耳にかけたアィパッド、眼の前に掲げたケイタイ、化粧をするために睫毛を映すミラー( 鏡 )。
人と介する場所に自分の垣根を設けた、わがままな存在そのものです。
甚だしいのは、優先座席に座ってケイタイを動かしている者がいるのです。
自分たちとは関わりのない社会が設けた、優先座席にのっかかってケイタイを持ち人とかかわろうとしている輩。
それに象徴されるのが、ケイタイの存在なのです。

誰でも頭の中に、討論する対象を考える脳と、自分の感情に支配される脳を抱えているのです。
自分の感情を乱す存在が眼の前に現れたとき、人はどういう反応をするでしょうか?
安易な対処は、他人の視線をそらすことです。
ディスカッションをしない、理論を形成しようとしない思いが生まれる。
ケイタイを持つことで、ディスカッションを避けた人格形成がこの社会に蔓延していると感じました。
パッション、感情に支配されている人物が、続々と育てられているのではないですか?

ロジック、論理を形作るものとして組織・集団を頭に浮かべる。
家・家族・団体・企業・組合・国民・国が挙げられる、個人の人格を規制する阻む存在ではないか?
集団・団体それぞれから個人に対して、定まった対応を求められる、個人を活かそうと組織を作りながら個人はそこに矛盾を生じる。
頭の中にある脳が、その絡まった糸を解きほどこうとして、何とか考えをまとめようとする。
家族が崩壊して独居老人が増え、詐欺を働く上場企業を防ぐことのできない組織と国。
そしてそれを支持するのも人、どれもこれも今の、日本の姿を見せつけられた。
それがいま崩れかけているのが、いまの社会ではないだろうか?

同じ機能を果たすケイタイが、世界のあちらこちらでこの社会を変えようと動き始めている。
アラブの春から始まって、エジプト、リビアギリシャ、スペイン、アメリカ・・・。
これだけ普及したにもかかわらず、その使い方を知らない人が生まれている。
こそっと写真を撮って投稿し、炎上するなど、ルールづくりがまだできていない。
このケイタイが、テレビ会議のように集団で討議出来るようになれば、このように感情に支配されることはなくなるだろう。
優先座席で堂々とケイタイをいじっている人がいる限り、自分だけの世界に入ることができるのもケイタイ。
社会性を持ち続ける、自律ある人がケイタイを使うことにならない限り、感情に支配された人が電車を乗っ取りつづける。