ハグのもたらすもの

ハグのもたらすもの

Mさんの発案から,インド訪問の会合に参加。
日本とインドNGO団体と、訪問先など固有の話になるので、詳しいことはこのブログに書けない。
頭にある記録として残すことに意義はあるのだが、人にいらぬ先入観を与えたくない。
微妙な立場にいるのを、いつでも感じる。
インドの話は、まともな会話(日本語)をしていないために、スピーチのできない私だけの<一人合点>かもしれない。

会合では、1日のスケジュールを訊ねられた。
6時起床、モーニングサークル活動<挨拶とボランティアの振り分け>。
その後ワーク <クック、植林、身の回りコミュニティの整理整備>
8時朝食。
9時、二度目のサークル活動。
ワーク < コミュニティの日常の活動、 植林、植栽 、植物への給水など >
昼食のクック。
12時昼食。
ワークショップ<任意>たとえばヨガ教室。
ワークショップを自分が開いてもよいし、参加してもよい、参加しなくてもよい。
3時あたりから夕食のクック。
6時から夕食。
後はワークショップが在る時もあれば、映画会のあるときも。

このモーニングサークルに、最初から抵抗があった。
素直になれない、自分がいる。
たまに瞑想の時間が与えられ、地面にすわり黙想することがある。
英語が理解できない者にとって、英語のスピーチは苦になる。
わからないから参加をしなかった、だからといってワークは逃げられない。

満足に参加していないからよくわからない、サークルに<ハグ>があった。
そのハグに抵抗が在るということを、この5人の会合で伝える。
ハグのことは、日本に帰って初めて声に出す。
非常に面白い反応が返ってきた、私の考えが狭い大らかに受け止めなさいというような答えであった。その答えが女性であったこと、それも驚きである。

実は、
インドにおけるボランティア活動の中で<ハグについて>、当時の仲間・親友に質問して答えをノートに書いてもらっていた。A4より小さいノートに4ページほど、時間をかけてもよくわからない内容。
そして、そのハグというものがボランティア参加者とスタッフ同士、スタッフ同士(参加者に指示を与える者同士>で行なわれていることを観て、<あなたはどう思うか?>という質問を親友にしていた。
そのノートを読んでもらった。

ハグという行為、抱き合う二人にとって意味があるのかどうかがテーマ。
二人だけの問題かどうか二番めの、テーマ。
抱くとかキスといったものに、秘め事だという先入観を持っている人が存在する時代だからこそ、ハグという行為にいろんな意味をもたらす。
自分がしたいと思っても対する相手が、手を大きく開かない限りハグにつながらない。
笑いにつながる可能性もある、そして人が観ているというプレッシャーの元で、自分の行動を規制して<ハグ>に向かわせることもあるのではないか?
秘め事は所詮秘め事であるべき、男男・男女も同じだと思う。
私は、経験してもいないモーニングサークルに<強いられる自分>を感じた。
それで参加しなかっただけ、それはいけないことだっただろうか?

このコミュニティに3ヶ月滞在してその場を黙って去るとき(その時はワークの時間)、親友に見つかってしまった。彼と私はハグをした、それを見た別の悪友は<長いハグだなぁ>という。
悪友とはお互いが嫌いだということを、声を出して言い合っていた。
その彼ともハグをする。二人は共にインディアン。後でわかったが共に大卒。
つまりハグといって二人だけの秘め事ではなく、人に見せ合うための儀式に近い行為かも知れないということ。

ハグという行為がもたらすもの、安堵感。
感情を和らげる行動というのは、間違いだろうか?
この社会でよくある馴れ合いの象徴をみてしまう、ハグしている相手が根を持たない、後に何も残さないとすればいくらでもハグをするだろう。
スタッフ同士が頻繁にハグするのは、感情を和らげるのみで問題は引き継いでいて、スタッフの役割を果たしていない、果たされるはずがないと私は決めつけた。
うがった見方をすれば、女性の司令官(スタッフ)はハグを有効な道具に使える。
この時点でスタッフ同士ディスカッションする機会を、永遠に失ったと解する方が妥当ではないか?
こうして感情に左右されがちな、人間の本質を感じる。
それが頭の中で考えたロジック、一日が二日、一ヶ月とその論理を持ち続けることのできない理由ではないか?