自然に囲まれて


電気のない、自然に囲まれて、

旅といった、外に出て行くにはそれなりの不自由さは、ごくあたりまえのこと。
それを少なくしようとして、ケイタイを傍から離そうとしない。
この国に入っても、カメラやケイタイをなくしたというボランティアの声をよく聞く。
つながるための機器として、絶対に欠かせないものだろうか、そこに格差を見てしまう。

この村で働き生活をしている人が、すべてセラホンを使っているかというとそうでもない。
ゲイトでセキュリティをしているインディアンは、数部の新聞を読み漁っていた。
字の読める中高年であることを確かめることができる。
そして、彼らは絶えず食事のことを周りの者から、気遣われていた。
「何か食べたか、お金はあるか」

インドの村でありながら、欧米人に動かされているような雰囲気を感じる。
最初に感じたのは、この村がまわりのインド人からどう思われているか、であった。
それを訊ねるにふさわしい人を、最後まで見つけることができなかった。
だが、その雰囲気だけでも感じることのできる人たちは、大勢居た。
村のオーナーに指示されて、動いている人の「顔色」をみればわかるような気がする。
藁葺き屋根の修理、トイレ・水の設備の修理、家の増設を請け負う人たち。

誰彼となく料理をした食事を振舞うわけだが、彼らは食事の内容を好ましいとは思っていない。
カロリー的にふさわしいとは決して思っていないだろう、打ち合わせに来た人が、食事時になってその場を立ち去るということは度々みられた。
周りの人と、どう関わっていくかということは、ボランティア参加者としても何かしら考えながら行動しなければいけないと思った。

インド人の人たちの行動を観て、不思議に思ったのはお互いインド人ということを意識していないように感じたこと。
老人に気遣う気持を抱えながら、インド人同士の思いやりに欠けているように思えた。
その意味からいって、経済上の心配事といったものは想像もできないほど過酷なものであったかもしれない。金銭的な収支に関する話は、皆無に近かった。
欧米人とインド人の間に、簡単にわかるような壁は見当たらなかった。

自分が抱えている悩み事に、終始してしまい、他人の心まで入り込む余裕がなかった。
そして、スピーチに対する限界を感じていた。