口から食べられなくなったら

口から食べられなくなったらどうしますか
「平穏死」を考える

芦花ホーム 医師 石飛幸三さんの講演を聞く。
3・11から社会に突きつけられているのは、哲学ではないか?
小出裕章さんの生き方に共鳴するのは、社会の仕事を果たす前に自分の生き方を真摯に追求されていること。
原子力は人類にとってそぐわないものである、その意見を語るに自らの生きる姿勢を示さなければ、誰しも納得させないと熟知しておられる。
思想・哲学が伴っていなければ、あらぬ方向へいってしまう。
その真理をこめて電話で広く語りかけているのではないか?

医師から教わったこと、お金の話をすると予期しない方向へ流される。その忠告を心に刻んでいるとおっしゃる。現代の日本社会が、お金という物差しですべて推し測られ、いかに生きるかという哲学を抜きにして移行しているのではないか?
講演の最後、質問者と交わされたことは、医療の<出来払い制>というキーワードでした。
聴衆は、お金の話に耳を寄せなかったのですが、質問者の<国民皆制度である医療保険>という言葉を皮切りに、経済あるいは政治に向きます。
庶民にとっては、自分の一生、あるいは家族の看取りを想定して考えようとしました。
お金の話をすると、生き方・逝き方・個々の思想的な問題が在らぬ方向へいってしまうという。
国の歩む方向が、おかしい方へ進んだ結果、こういう結末を迎えているのではないでしょうか?

長年特別養護ホームを勤められて、人生の末期を看取られた方の話は重い。
食べ物を食べようとする、食欲。
食べたいときに食べる、何も無理して食べる必要はない。
無理強いをして、食べる量を人に委ねるべきではない。
自分の手で食べ物を口に運ぶのが、ベストである。
自分で運ばないからむせ返り、誤嚥し肺炎を患うことになる。
食べ物は、自分で口に運ぶ。
そこに考えをもちかえる必要がありそう。

胃ロウをつけられた人。
自分では量を加減できない!
入れすぎると逆流、嘔吐する。
誤嚥性肺炎あるいは、窒息死を招くかもしれない。

終末期が近づくと、必要カロリーは少なくなる。
多すぎると、心不全・肺水腫。
痰が増える、吸引回数が増える。

胃ロウをつけなかった方の最後。
摂取量が減ってゆく。
まったく食べられなくなって眠ったままで、
呼吸苦がない。
浮腫がない。
最後まで尿が出る。

医師でなければ知ることのできない、患者の様子を教えていただけるのはありがたいことです。
どこで最後を迎えたいか>
六割の人は自宅を望んでいますが、現実は八割は病院とのこと。
老衰の果ての胃ロウ、国民の八割は「望まない」
しかし現実には八割が胃ロウを造設。

人が生きてゆくに、何が大切か?
自分にとって、何が望みか?
お上に聞いてみてもわかるものでなし、医者に頼んでも不老不死は叶わない。
突然救急車に載せられて、病院で胃ロウを付けられた。
そういう可能性を秘めて、我々は医療に関わっていると認めるべきである。
お医者さんは、胃ロウを付けたあとでも自分の意思で胃ロウを取り外せると答えてくださった。
自分の意思で自分の死を迎えることができるという、励ましの声。
高年齢になったいま、考える。
自分の頭が働かない、認知症になってしまっては何も出来ない。