コンテクストがつかめない

コンテクストがつかめない

今年からTwitter,Ficebook,を本格的に関わり始めた。
やってみて、私にとり一過性の行事だなぁという印象。
文字制限がある、このことは象徴的な意味だと感じている。
長い文章もあれば短い文章もある、そこから読む者が選択すればいいのに、サイト自体でサーバー自身が縛り付けてしまう。ナンセンスの極めつけ。

双方向システムという陰の声を載せながら、コミュニケーションを広げようと<一発芸>的な楽しみを追い求めている。
よく言われる、プレゼンテーション手法を重んじている社会ではないか?
興味ある人が、自分の前に登場してきた。
一人の吐き出された情報だが、そのすべてをチェックすることは適わない。
ひとりの発言は、相手を想定した返事に相当する言葉なのだから。

ブログで、コメントをそのブログのうしろに掲示するスタイルがある。
すべてのコメントを読み合わせることで、ブログに書かれた著者の性格心情を推し量る事はできる。
しかし他者にとって、コメント全部読むにははばかれる。
自分に向かってなげられた言葉ではないのだから・・・。

人がケイタイを使っていて、そこで交わされる言葉から<通じている二人の関係>を詮索しようとする人はまれだろう。
それほど会話されている話の内容は、言葉で発信されて数秒で消えてしまう儚いものである。
本来消えてしまうものをいついつまでも後追いする世界は、人に疑心暗鬼させる。
まるで隠密スパイ容疑に明け暮れている、暗黒の時代を想い出す。
短文形式で<言いたいこと>を煎じ詰めよという、Twitter ・ Facebookなどの形式は、私の性格に合っていない。

誰々が、なにをした。
そのことに大した意味はないと思う、重要なことは<自分が何を考えるか>ということ。
そのことを言葉で表わすには、短文で書き表すことができない。
たとえ文章の達人でもだ、こういう表現の仕方を展開したシステムの流れは、欧米文化的といわざるを得ない。動物の毛皮を裂いて、肌身につける文化。
切り剥ぎ文化である。いわゆる内科、外科、歯科、産科。
治療を受ける側が、安心を得る場所を狭めてしまう風潮、それを知というらしい。

短文文化を傾聴・尊重するあまり、言葉を発する側からの意味をないがしろにしているように感じる。一日1000発のメールを流して身の安全を確かめるというように。
双方向システムとは、コミュニケーションの基本・定義ではないだろうか?
情報を発信する者だけが発言すべきではないし、情報を受け取る人ばかりが受け身になっては<生きた情報>に近づけない。
発信をすれば次は受信をする、受信をすればあとは発信、という循環を繰り返してこそ、人との交流といえるのではないか?
情報を交わすのに、職業化は必然ではない。