急死

急死という言葉を久しぶりに聞く。
時と場合より、年齢の想定外というか、若いというのが焦点。
その意味で、2011年後の急死は少なくなった。


知り合いを頼りに、新しい場所に向かうのが常だが、
私はどういうわけか、会合と聞くと歩いていく。
セミナーとかシンポジウムとかいうと、知らない場所に集う。


催しがあり関心あると、人の成りを探る。
今日、自分がいかに人前へ出ない、内気なことが分かった。
人嫌いかもしれない、人の顔を見るのが嫌。
この話の最初から、終わりまで誰の顔も認めなかった。



セミナーの数はひとつの階に、5部屋ほどあった。
奥の部屋に婚活イベントがあり、イベントを知らせる看板が出ている。
私は定時より30分早く、部屋前の接待いすに座っていた。
この30分というのが、この時代を感じさせる。


催しを開くほうでは、事前準備で大変だろうと気を利かす。
そのスタッフの対応が、即時見せるものだと「わかった」。
部屋ごとのスタッフに聞こえるような、大きな声でしゃべる。
もちろん私が、並んでいるかもしれないのに大声。


他の人がどう思うと、自分に関係ない。
そのためか、感嘆語、感情的な言葉遣いをする。
大人でない、子供同様の言葉を発する。
スタッフ同士が、もつれあった感情語を放つ。



もうこの時点で、その部屋のドアを跨ぐのをあきらめた。
話を聞きに来たのだが、その気が失せた。
何をもってこの催しを開いたのか、その気がわからない。
私は、「この」業界の人だと思ったのだが、それも否定された感じがする。



急死
フォーマルな場所で、人に理でもって示さなければ
誰も信じないものだと思うのだが、
先人が誰もそれを指示さない、大変な時代を見せつけられた。
伝えるべきことを誰もしない、今の政治のような社会が連綿と続いていくのか。



大きく言えば教育、そのもののこと。
このような催しを何百年繰り返しても、発信する方
受信する側どちらも学びはない。