意識という領域
意識なるものを探るという、ドキュメンタリーをみて
親戚の最後を思い出した。
彼は意識があったかという、こちら側の気持ち。
それとレイプされた人の、その瞬間の同意と。
続いて連想したのが、頭にこびりついている。
自分の身体に関することでも、意識があるのか、あったのかという
記憶は、曖昧にしている。
自分には意識があるという、情報を周りの人に表現しているのか。
この人は酒に酔っておらず、自分の意思に基づいて動いていると、第三者が判断しているかどうか。
人の胸に、無意識と意識という紙で心持ちを表示できないものか。
問いかけてみて、日本人としての性格の曖昧さに、恥じ入ってしまった。
自分の思いを出し切るのに、躊躇する。
つまり、自分が生きているということを示す、
今ここにいるということを、明らかにする、
それを良しとしない。
この個人的な思考の流れは、
身の回りにたくさんの日本人に囲まれてきた、歴史の繰り返しによって、生まれた適正ではないか。
群衆化した社会環境から、人口が全く増えない社会への
変貌する過程ではないのか。
この人は、意識を持っていると確信している状態。
セックスの過程で、同意を得なくてもそれが可能となる、
人間の動物性とは。
それで生きることができる、その社会性とは何なのか。
この国の人は、無駄に生きている。