初見の、エンカウンターに参加した

 
初見の、エンカウンターに参加した



 
 若い人の話を聞いたことがないので、刺激的だった。

 忙しい、心ここにあらず。

 何もかも余裕がない、それが若者だと。

 それが一般的、日本のわかもの。

 


 16年前、対人援助のワークショップへ参加。

 その再会であった、人生の振り返りのようなもの。

 人生は、いつになっても、繰り返しができる。

 日本人だから、話せばわかる、それを信じ見知らぬ土地へ移動した。





 旅とあわせて、時間の余裕があればネットカフェに立ち寄り、

 ネットにある映画を枕にして寝る。

「 迷宮カフェ 」一枚の写真と題を読んで映画を開く。

 数分の映像から、そのまま見続けるか、考えてみる。






 寒気がするように、リアルが映画の命か?

 そのリアルについていけないものがある。

 夢がないというのが、いまの時代とか。





 ワークショップは、見ず知らずの人であっても、有意義な体験を重ねた。

 旅の道中と同じ、二度と会えないかもしれないが、密室の中で

 他人には明かせられない失敗と悩みを告げ、同じ時を過ごす。

 人に伝えるのが目的ではなく、自分の心の整理をするため、

 他人に経験を語るのである。






 自分の存在を教えるのでなく、まとめる為。

 参加者のひとりが、心理学と言葉を発したので、その言葉に相乗りした。

 先生が、うつになったり暮らせなくなったとき、それ以前に教科として心理学を学んでおけば、

 鬱を防げたのではないか。

 さらに加えて、認知症とか、鬱とか、ならないには、同居する家族がいなければ、

 認知症やうつには、かからないのではないか〜。






 いま死にかけている日本。

 インフラの限界を一心に感じているのは、

 本人自身、公務員ばかりか。

 題名から選んで、観ない映画。

 偶然、深みのある言葉をめぐって、人生のような旅を映画でした。





 死ぬ、死ね、死にたい、殺すなど。

 死ぬ様子を見たこともない、幼児が語るような「死」の連呼。

 死に近づいていない、幼児や少年が、感情によって使う言葉。

 身内の死を知らないからこそ、声に出す「死」。

 言葉から考えると、自分が遠ざかりたいにも関わらず、

 口から吐き出す、音声。






 日本人みずから「死」という言葉によって、

 狙われていると、自己暗示をかけているのではないか。

 事の本質を討議する、リアルな方向へ〜