愛を読むひと

愛を読むひと   2008年    アメリカ・ドイツ
THE READER

監督 スティーヴン・ダルドリー
原作 ベルンハルト・シュリンク『朗読者』

出演 ケイト・ウィンスレット
   デヴィッド・クロス
   レイフ・ファインズ


1958年のドイツ。
15歳のマイケルは、年上の女性ハンナに心を奪われる。
いつしかベッドの上でマイケルが、本を朗読するようになった。
8年後、法学生となったマイケルは、被告席のハンナを見る。





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不可解というか、わからないことがたくさんあって、
結末まで頭がついていけない。
言葉や文化の違いといえば、容易な解釈ができる。


我々の使っている日本語は、本質的に人権を重んじているか、
そうと思えないので、映画の中身に共通性をもてない。
法である。
法に対する概念が、日本人自体マイノリティな存在にとってしまう。


対し、英語圏などは、人権を言葉の中に深くコミットしているものと
信じている。
その法における言葉の扱いを、慎重にしなければいけないのが、
戦後裁判の象徴、勝利国による審判。
正義の判決は、裁判前から決まっているのではないか。


各国の裁判の成り立ちが異なり、人権意識が各々違う。
さらに法を支える慣習も、国の歴史も違うからでしょうか。
マイケルがハンナに面会を申し出しながら、キャンセルする。


法的には、問題ないこととして庶民に受け入れられるとしても、
人としての誠実さがない。
法に携わる者としてより、自分の意見を伝えるという
最低限の行いをしない、マイケル。


マイケルがどんな職業にいるか、ハンナは理解しているだろうが、
一週間後釈放される前に、自死を選んでマイケルの手から離れようとする。
その本意とするものは何か、興味深いものです。


アウシュビッツで多くの人を死に導きながら、身の潔白もせずに、
引き下がり刑を受ける。
他人からみれば、意志の強い女性に見えるのですが、「本を読む」という経験
から良心の呵責に苦しんだというのでしょうか。


「本を読む」ということと、「知」を得るということ。
その本質的な手だては、「歴史や文化」を表わしうる「言語・ことば」。
言語を操れなくては、文化人・知恵者と誰も認めない。


法の番人として、「非識字者」はなりえないもの。
そのような結論は、見いだせない。
「知」そのものが、万人のものとして「認められていない」時代に
社会は突入しました。