大阪万博のとき

大阪万博のとき (1970年)

中学の級友が60人だった世代。その友達の顔を、今でも覚えている。ひとり一人の性格を掴んでいた。今では考えられない、クラス活動をしていたのだろう。倫理社会あるいは道徳の時間、ホームルームに力が注ぎこまれた。一人当たりの生徒に対応する時間が限られている、という発想ではなかったか。

精神修養。素直な自分に返って自分の気持ちを確かめる。後ずさりして振り返る、そのような自分の時間を過ごした。すべての生徒の気持ちを、聞いていれば授業が成り立たない。何か事あれば、クラス全員で考える。

この全体で物事を考える、その級友が大人になり職場で密な関係を築いていった。これが、後の日本が経済成長時代に囃された、“企業戦士”という言葉。級友が多かったのに、それに反し友達は密な関係を求めていた。友達同士、お互い個人として意識し認め合っていた。

当時大阪に住んでおり、学校で鮨詰めにあっている世代から見ると、混雑する場所に出かける気持ちが起こらない。大阪万博というのは、人ごみが集まるところというイメージが強かった。それが、中学時代の友達が切符を持っていると言って、二人で会場に詰めかけた。パビリオンに一つか二つ入っては、並ぶのを止めて、遊ぶ場所を換えた。

家を出て、本屋の住み込みをやり始めた。自分の生活が他人とどう違うのか、確かめる機会になった。昼時になると女店員と、一緒に食事をする。その食堂にテレビがあり、ピンキーとキラーズが歌っていた。女の子がキャーキャー言っていたのを覚えている。

家族から離れて生活するとさびしくなるが、新しい経験をしたい気持ちの方が強い。同僚の顔を思い出すことができるが、何に興味を持ち、何にドキドキしたのか覚えていない。店の中で年少、教わることを素直に受け入れたのだろう。

アルコールやたばこを覚え始めたのか、それとも身近な人に思いを抱くようになったか。
住み込みの寝床から外には出かけようとはせず、内にこもっていたかもしれない。
店の外を出歩いた、道や風景が思い浮かばない。

婦人公論。雑誌の末尾にある、文通相手募集欄。
ひと言自分の思いをのせて書き綴る。書いては、文通する友を探していた。同じような感性を求めては、読んでいた。

みんな一人ぼっちだと思う、そこから文字を書き始める。

本を読むような感覚で、他人の人生に関わろうとする文通。自分が書いたモノが、会ったこともない他人と交わり、言葉に力が加わる。別の社会に出ていった文章は、生まれ変わったように着飾っている。

文章を書いているうちに、自分が溺れこんで意図しないまでも嘘をついている。