私が二十歳のとき

私の二十歳のとき(1969年)

高校に入学すると父は、自家用車で校舎まで送ってくれた。少しすると社員に運転を任せ、見送るようになった。さすがに恥ずかしくなって、電車を利用する。当時旭高校は、ほとんど進学する生徒ばかりであった。

勤めだしたのが、乾物の卸会社。営業の下働きにあてがうつもりだったのか。同じ時期に入社したのは、地方から来た高校生。彼は第五福竜丸のことを、篤く話していた。

休憩を与えず奴隷のように指図する、経営者に嫌気がさしてきた。ちょうど物流の世界にスーパーの波が押し寄せてきた。和泉雅子山内賢「二人の銀座」。

両親から大事に育てられていながら、進学を考えずに卒業ができた、なぜなのか。どうして親を説得し、外に出ることができたのか。親が納得したのは、経済的に家が傾いているのがそうさせたのだろう。

働いてお金を得ること、それが生きていることの証だと思っていた。働ける能力を備えているかどうか、乾物屋の経験だけで自信は生み出せなかった。職安で見つけたのが、紙の卸商。紙は、文化のバロメーターというのが、社長の口癖だった。印刷紙等の貯蔵・断裁・運搬をする、倉庫係だった。

細かいことは先輩から教わり、断裁まで関わろうとしていた。この仕事をして自分は社会で役に立ち、働いていけると実感する。その勤め場所でケガをする。紙を運搬する通用口として床をくりぬいた処から、一階まで落ちてしまった。コンクリートの床には、台車が置いてあった。落ちて死亡という、結末になってもおかしくない労働環境だった。

足の小指の骨折だけですんだ、奇跡だと思う。治療は数週間で終わった。次に見つけたのは、住み込み書店員。ひとりで生活をする能力があるのか、何ができるか。他の人とどこが違うのか、知らない土地に住んでみて、異なる仕事をやってみたい?

店に食堂が設けられており、テレビからピンキーとキラーズ恋の季節」が流れてきた。ふたりの女店員が歌いながら、私たちに笑みを浮かべていた。朝から何時まで、働いていたのだろう。経営者でもある店長は、自ら風呂焚きに専念し汗を流していた。燃やすものは、木切れから紙類まで時間をかけていた。

働く時間が長く拘束されていても、寄宿舎のような共に過ごすという体験ができた。人により一層近づきたい、その気持ちが高ぶってきたのではないか。


部屋に閉じこもって、店員同志が話し合うという機会にめぐり会えなかった。
内気な若者たちが働いていたのかもしれない。男三人女性二人。
店員5人の書店が二軒、若者の人の扱いには注視していた企業だったかも。