喧嘩により死亡、二つの事件

喧嘩により死亡、二つの事件



昨日、少年が喧嘩で死亡したというニュース、二つ同時に流れた。
同じ事件かと思った、しかし違った。
本日改めてネットで探してみるが、見つからない。


月曜、遠くから選挙のスピーカーが聞こえるので、こちらもせわしくなったので
期日前投票をしようと出かけてみる。
いつもの会場を繰り返し探すも、見当たらない。
玄関の入り口に、期日前投票の案内はしているのだが、まだ早いらしい。


戦時中国家というものは、こういうものではないか。
投票は早くすませて、予算を少なく執行した方がいい。
ところが、政府機関は、政治に入り込んでもらいたくないニュースを
極力排除しているのではないか、想像する。


とにかくこの政府は、ネットを今まで以上に意識している。
新聞・テレビならどうとでもできるが、ネットではできないと。
この政治の津波が、いま押し寄せているのではないか。



ネットネットと喜んでいても始まらない、政府が簡単に統制できるマスコミを
我々は熟知しているはずです。
自分にお鉢が返ってくるとなると、ドバーと情報を流すのがマスゴミ


二つの出来事は、喧嘩の上で死亡するというケース、元々友人だったとか。
その記事を見たときの感想は、あの小泉劇場を連想しました。
バラエティのワイドショー化。囃した立てる聴衆がいて、さらに盛り上がるのです。
何も政治だけではない、友達関係でも起こっているようです。

派手なアクションを交えた、ショウ劇場。
まわりに女性がいれば、さらに盛り上がることが想像できます。
最初の一発は、根性の一発で反撃を許さない、プロ並みの一撃でしょう。

何もかつての友人に根性をみせつける小劇場でなく、小さな寄り集まりでも
つねにまわりの意見を聞いてから、自分の判断をする。
自分の意見は、とことん最後の最後になるまで吐かない。
小心者の、考えです。

あのイジメにあった時の、対応の仕方と同じです。
自分の意見を言わない。


二つの出来事に共通しているのは、
その喧嘩の周りを友人たちが、とり囲んでいたということです。
暗黙の承認。
「そんな喧嘩なんて、やめて!」とか、「やめろ!」と言いません。
喧嘩を取り囲むのを止め、その場を去ることができなかったか。


裁判員制度によって、事件の当事者になって考える場面が増えました。
あなたも事件の「ほう助罪」に問われないのでしょうか。


飲酒運転に「ほう助罪」が、加わったかもしれません。
このような青少年たちを育ててきたこと、この社会も問われなくてはならなくなります。
この参議院選挙で大きく舵を取りはじめています、あなたは問われませんか。