セックスレス夫婦

セックスレス夫婦


戦争と1人の女
坂口安吾

野村は戦争中1人の女と住んでいた。夫婦と同じ関係にあったけれども
女房ではない。なぜなら、始めからその約束で、どうせ戦争が負けに終わって
すべてが滅茶々々になるだろう。

文中で
女は快感がないくせに男から男と関係したがる。
「奥様暮らしが板についたなら、肉体の喜びを感じてくれるといいのだがね」
と野村のセリフを用いて、男である野村を主人公にして語っている。

戦争中、それも末期の時、日本人のほとんどが奴隷になるか、殺されると思っていた頃。
男と女の関係を当時を思い返してみる、性に対して奔放であることより、
女性の側から見ての視点、女性の肉体の歓びを共に分かち合う、そのことを重視する
男の性を感じた。
女性が喜ばないことには、男の性は解放されないモノなのか?

セックスレスという言葉が、社会から出てきたとき、家事から遠のいた女性の社会的労働に
よる弊害の一つではないかと、連想する。
性というモノは、個性的なものであり、すべての男や女に共通の感性などないのではないか?

戦争と1人〜では、自分だけではない、相手となる女の歓びに重きを置いている考え、
であるのなら、レイプ・死姦と同一な、己だけの感覚を大事にする人など想像もできまい。

戦争中、慰安婦がいないのであれば、レイプなど常ではなかっただろうか。



続戦争と1人の女
坂口安吾

カマキリ親爺は私のことを奥さんと読んだり姐さんと呼んだりした。デブ親爺は奥さんと呼んだ。
だからデブが好きであった。カマキリが姐さんと私をよぶとき私は気がつかないふうに平気な
顔をしてゐたが、いまにひどい目にあはしてやると覚悟をきめてゐたのである。

私はむかし女郎であった。格子にぶらさがって、ちょっと、ちょっと。ねぇ、お兄さん、と、
よんでゐた女である。
女が主人公に変わって、語られる。

そして、私は野村が私のからだに酔ひ、愛し溺れることに満足した。

「私はあなたみたいに私のからだを犬ころのやうに可愛がる人はもう厭よ。まぢめな恋をするのよ」
「まぢめとは、どういふことだぇ?」
「上品ということよ」
「上品か。つまり、精神的といふことだね」

男と女は、いにしえから営々と繰り返されてきたのが、日本語であっても交わす言葉が変わる。
性の歓喜とは、男と女は違うのか?

ここで慰安婦問題、戦争とレイプを思い浮かべてみる。
数年前、青年による犯罪で、殺人後レイプする、死姦された裁判があった。

レイプという犯罪を、どんな男でも犯せるものだと限っていない。
電車での<痴漢>という行為も、私には理解できない。
公然猥褻、衆人の監視の下で気持ちが昂るということが想像できるが、
あらゆる男が、誰でもいつでも果たせる能力を持ち具えているというのは、誤解ではないのか?

ほとんどの日本人の男性の精子が、異常に少なくなっているとしたら、
格差社会がもたらす、インポテンツの撲滅は国家的事業になる。
高齢者の政治屋が、考えるような、経済支援だけでは、国力は高まらない。
それがわからないのが、男と女。
性の対象となる、女性の身体の喜びなど、〇〇党などわかるはずがない。