無言歌

無言歌 

それでも、人を想う。
1949年、毛沢東の革命は希望だった。
1956年、毛沢東は自由な批判を歓迎するといった。
人々は未来を思い、はつらつと発言したものだ。
しかし、その数か月後。彼らを弾圧する「反右派闘争」が始まった。


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撮るのは、大変だったろう。しかし、観る者にとってすんなり気持ちがついていかない。
学びとして、なぜ遺体に執着するのか、考えてしまった。
どうせ、わたしは異端だから。
位牌、墓碑がないとは。
木片を持たせ、遺体とともに埋めているという。
遺体を埋めた場所には、墓碑がない。
見つけた遺体は、荼毘に付された。

飽食の日本では、考えられない飢餓というもの。
戦争中において日本人が飢餓の経験をしたことは、記録に残っている。
この映像を見たいま、私たちにとって、3・11後だからこそ描かれた内容が淡く映る。
震災で、2万人以上の日本人が亡くなった。
個人的な面から精神的に、追い込まれている時ではないか?

ゴビの砂漠に埋められている遺体をみて、日本の報道と異なる風景を見た。
埋められた人の頭に、豊かな髪が風になびいてる。
北太平洋沖大地震の外国ニュースに、決まって遺体が映し出されていた。
しかし、日本のニュース、メディアの写真にはまだ遺体が登場しないらしい。
今は戦時ではない、自由だと信じている日本国である。
思い出したくない記憶を無くそうと、われわれは望んでいるのだろうか?
今すぐにでも、過去のことだと忘れたいのだろうか?

映像が記録として、実像を映していない。
雑誌には、遺体が登場しない。
事実を映してほしい、記録を残してほしい。

そして、この映画を観ようと思ったきっかけは、当の中国で放映されていないこと。