自転車にもてはやされる、排除の論理

自転車にもてはやされる、排除の論理



貧困や野宿者生活者を扱ったシンポジュウムは、大阪の繁華街の施設で
行われました。その場所へ行くには、危険が伴います。
それは何でしょうか、日本の縮図、今の大阪を見ることができます。

私は車に乗れず、自転車に乗らず歩きます。
歩くことが最低限できる、身体の動かせることですが、それができない場所が
生活する町の生活、「歩道の分域」です。
そこが安全でない。

この繁華街で生活することが叶わない、自転車の横行する町に成り下がっている。
この自転車を大阪は、「金儲け」の道具として奔走しているのです。

見かけは、体裁のいいように「自転車パーキング施設」を設けているが、運営するうえで
コストパーフォマンスはうまくいっていないだろう。
使い勝手がいいはずがない。

この日本社会にはびこっている社会、排除の論理が徹底されていることを伝えたい。
端的な例が、この「歩道空間」の利用者の人権が確保されていないこと。
自転車に取られ、次には大阪市国交省に奪われ歩道橋が作られる。
道路を車から奪われた結果、このありさまである。


新自由主義というと、小泉の2005年の経済といいます。
ネガティブな印象を持っているにもかかわらず、同じものを
同じ政党が引きずってくることになりました。
なぜこういったことが、繰り返されるのか、
かつての政治や経済がどうだったのか、その結論のコンセンサスは得られたのでしょうか?

TPPを考えてみても、政治の世界と経済が深くかかわっているのが
当たり前なのに、経済を抜きにして政治を語るような雰囲気を感じさせます。
TPPは、明らかに経済が政治の分野を乗り越えて、攻めてきています。

職がない、勤め先が見つからない、住むところがない。
極端なことを言えば、被災者がどのように勤め場所を見つけるとか、
具体的な話しが浮かばないのが、不思議です。

個人の問題、自分が十分な配慮をしなかったということで、自己責任が
問われ、自己完結されてきたのが「貧困」に対する市民感情のほとんどです。
落ちこぼれた人たちを排除することで、自分の責を軽くしたい者がほとんど。

話しを元に戻して、
2005年の経済状況と、2013年の経済では何が違うのでしょうか?
日本経済に、どういう違いがあって、何が変わらないでしょうか?
働き口を探す、と同時に、高等教育においてアントレプレナーというのか、
起業を教える分野がもてはやされる、時代が出てきてもいいと思います。

シングルマザーが、職を見つけられないというのは、喫緊のテーマではないでしょうか?
自分だけの世界で物事を考えていれば、楽に過ごせる。
人のことを考えることを一瞬たりとももたない、こういう考えが庶民の側から、
固まってしまったら、この先どんな社会になってしまうでしょう。

政治と経済を切り離して、物事を考えてしまう習性がついてしまったのではないでしょうか?
原発とか、橋下とか、経済を切り離すことなく問題を考える必要があると思います。
世界は「金儲け」で動いていることを、実感として経験させるのが2013年の新自由主義
再来である自民党の経済政策かも。

地域に経済を、庶民に働き口を。
歩道を占領され、歩くこともできない、自滅寸前の大阪地図です。
写真をご覧ください。